武蔵無常 書評|藤沢 周(河出書房新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年8月8日 / 新聞掲載日:2016年5月20日(第3140号)

存在の石塔 
自らの罪に苦悩するまったく新しい武蔵像

武蔵無常
著 者:藤沢 周
出版社:河出書房新社
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武蔵無常(藤沢 周)河出書房新社
武蔵無常
藤沢 周
河出書房新社
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宮本武蔵はこれまでに多くの作品に描かれてきた。「吉岡一門との戦い」や「巌流島の決闘」は一応史実であるが、細部は史料により異なるので、多くの武蔵像が創られてきたといった方が正確だろう。作者はまったく新しい自らの罪に苦悩する武蔵像を創った。そして、その苦悩こそがこの小説の主役といってよい。

「壱」に、「いつの時代を彷徨うているやら、また、いずこの土地を経巡っているやら。慶長の世でもあり、平成の世でもあり、下関でもあるか、内藤新宿でもあるか。」と書かれているように、時空を超えた俯瞰的視線が挿入されている。それを可能にするのが、「能でいうワキ僧のようでいて、自らもすでに霊である」、あらゆる者に憑依できる語り手の位置だ。語りは人ならぬ者として男(武蔵)を俯瞰している。さらに、「ラスコリニコフ」や「ムルソー」の名前が記されることで、作品の中心には俯瞰された罪の問題があることが分かる。

作品の基準となる時間は、「巌流島の決闘」の1日前だが、武蔵は語り手に導かれ地獄めぐりのように、過去の時間の幻影を往還する。これまで切り殺した者たちが亡霊となり現れては消え、罪を抉り苛んでいく。その中でも特に苦しめるのは、吉岡一門との「一乗寺下り松の決闘」で切った幼い将の又七郎と、決闘ではなく切った老僧の愚独だ。

そのような武蔵の意識のさらに奥にある驕りも作者は丁寧に描いて行く。最初の戦いであり殺人である有馬喜兵衛を倒した幻影では、「見たか。見たか。見たか!/殺った。殺った。殺った!」と、そして、その少し後には次のように続く。「世界が俺を試している。そうとしか思えない。何層もの世界が重なり、目の前で景色となっているが、その層には隙間があるのだ。己が逃げ込むことができる隙間も、己をそそのかす隙間も。誰にも見えぬが、俺だけにしか見えない世界の隙間が……」 これは「ラスコリニコフ」や「ムルソー」、作者の言を借りれば「平成の理由なき殺人者といわれる者たち」とも共通する、じぶん勝手ともいえるむき出しの欲望だ。

小説中盤の船宿の下女との交接から急展開し、闇部山兜跋寺塔頭の破れ堂燈籠庵での、愚独殺人の幻影に移っていく。〓燭の明かりに不動明王像が浮かび、目も耳も口も効けぬおなごの気配だけがある、ほぼ暗闇のなかで意識の奥の独り言にも似た、対話がくり返される。愚独は執拗に罵倒し武蔵を追い詰めていき、やがて闇に飛び出した武蔵は闇雲に木刀を振いながら己の深奥を問い詰める。「租に逢うては、祖を殺せ」「道を極めるためならば、たとえ親でも殺せ」「仏に逢うては、仏を殺せ」という問い、公案集『臨済録』の言葉を繰り返した後、「仏を拝めば、いまだ剣。仏を斬れば、すでに剣」という結論と共に、愚独を木刀で頭頂から一刀両断にする。

その後、小説は思わぬ展開をするのだが、これ以上は読者の楽しみを奪うので、筆を止めることにする。ただいえるのは、武蔵は苔むした石塔の前に立ち、「巌流島の決闘」では、やはり燈籠庵の対話でくり返された、「百尺竿頭に須らく歩を進めよ、十方世界に全身を現ずべし」という、公案集『無門関』の言葉を具現する境地に立つ。

読後、読者の私も武蔵のように、長い風雨に晒されすり減り苔むした、石塔の前に立っている気がした。この石塔こそが作者の現在への存在の問いなのだ。
この記事の中でご紹介した本
武蔵無常/河出書房新社
武蔵無常
著 者:藤沢 周
出版社:河出書房新社
以下のオンライン書店でご購入できます
「武蔵無常」出版社のホームページはこちら
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