フィッツジェラルドと短編小説 書評|藤谷 聖和(彩流社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年8月8日 / 新聞掲載日:2016年5月20日(第3140号)

発想の転換を迫る一冊 
短編小説群から聞こえる作家の息遣い

フィッツジェラルドと短編小説
著 者:藤谷 聖和
出版社:彩流社
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目から鱗のフィッツジェラルド論である。

スコット・フィッツジェラルドの名前を知らなくとも『グレート・ギャツビー』の名を知らない者はいない。そんな中で、フィッツジェラルド文学の研究者として常に学会をリードしてきた著者が、『ギャツビー』どころか他の長編小説でも無くて、もっぱら短編小説を扱う。

フィッツジェラルドの短編小説の評判は、一部のものを除いて概して芳しくない。アメリカ文学の愛好者、研究者の間で通説となっているのは、最初の長編小説である『楽園のこちら側』で一躍有名人となったものの、浪費家ゼルダと結婚したばかりに慢性的な経済的逼迫に苦しみ続け、その穴を埋めるために短編小説を濫作し続けたというものだ。そうやって書かれたものは自ずと粗悪なものにならざるを得ず、それらの中に見るべきものが無いのに加えて長編の筆力を落とすことにつながり、一九三〇年代の崩壊へと流れ込むとされている。

では評判の良くない短編小説の本格的な再評価が本書に並んでいるのかと言えば、個別の作品の価値を巡る議論は見当たらない。章立ては「序章 フィッツジェラルド短編研究の進展」、「一章 ゼルダとの葛藤」、「二章 フィッツジェラルドと中西部」、「三章 手法の変化」、「四章 大衆雑誌と短編創作」と、最初と最後こそ短編の文字が躍るものの、あとは、妻ゼルダ、故郷である中西部、文体を巡る問題と、短編小説論というよりもフィッツジェラルド文学全体に関わるテーマが並ぶ。それをなぜ短編小説を使って論じなければならないのか。そこに本書の真骨頂がある。

経済的な動機で大量に生産されたことが評判を落とす原因となった短編小説。だからこそ、短編小説群がフィッツジェラルド文学を貫く軸となるという逆転の発想が、本書の大前提だ。一八〇を越える短編小説が二〇年間にわたる作家生活の中にほぼまんべんなく散りばめられているため、未完のものを入れてもわずか五作の長編小説とは違い、その作家人生の微妙な移り行きに寄り添いながら、その中で次々と生み出される文学テキストを検討することが可能となるのである。

時間を追ってきめ細かくテキストへの表れ方が検討できるので、各章で取り上げるテーマに関しても、これまで気付かれなかったアプローチや解釈が生み出される。たとえばフィッツジェラルドの女性観は、『ギャツビー』と『夜はやさし』の出版の間で出された連作短編小説シリーズの中で、劇的に変化することが明らかになる。あるいは、転居の多かったフィッツジェラルドが滞在した各地を舞台にする短編小説を並べてみると、そこには常に故郷の街セント・ポールへの陰影に満ちた思いが人生の浮き沈みと共に変化しながら流れていることが見えてくる。また、フィッツジェラルドが目指すべき文学としていわゆる純文学と大衆文学との間で大いに揺れたことは有名だが、それらの思いがどのように絡み合い推移して行ったか、またその流れが長編執筆にどのように影響したかが、どの短編小説をどの出版社に寄稿しどのように扱われたかから垣間見ることが出来る。さらには、そのスタイルが絵画や映画からどのような推移でどのように影響されたかも、時系列的に浮き彫りにされる。短編小説群を辿ることで、創作に取り組むフィッツジェラルドの、その時々の息遣いが聞こえてくる。

愛好者、研究者に、発想の転換を迫る一冊である。
この記事の中でご紹介した本
フィッツジェラルドと短編小説/彩流社
フィッツジェラルドと短編小説
著 者:藤谷 聖和
出版社:彩流社
以下のオンライン書店でご購入できます
「フィッツジェラルドと短編小説」出版社のホームページはこちら
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