共にあることの哲学 フランス現代思想が問う<共同体の危険と希望>1 理論編 書評|岩野 卓司(書肆心水)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年10月21日 / 新聞掲載日:2016年10月21日(第3161号)

共にあることの哲学 フランス現代思想が問う<共同体の危険と希望>1 理論編 書評
フランス現代思想家たちの〈共生〉をめぐる哲学の到達点を紹介

共にあることの哲学 フランス現代思想が問う<共同体の危険と希望>1 理論編
出版社:書肆心水
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東京大学で〈共生のための国際哲学研究センター〉という大規模な研究プロジェクトが実施されていたことも記憶に新しい。世界中で続発するテロや難民問題、国内でも経済格差や障害者施設の大量殺人を思い返すまでもなく、〈共生〉はいまや時代を考えるための不可避のトポスである。本書では、フランス現代思想からの寄与として、サルトル(澤田直)、バタイユ(岩野卓司)、ブランショ(湯浅博雄)、レヴィナス(合田正人)、デリダ(増田一夫)、フーコー(坂本尚志)、ドゥルーズ(藤田尚志)といった思想家たちの〈共生〉をめぐる哲学の到達点が紹介される。

興味深いのは、本書のタイトルに「共にあること」が選ばれ、副題で共同体の「希望」とともに「危険」が示唆されていることである。事実、編者の岩野が冒頭で、あたかも本書を従来の共同体論の延長上に位置づけるような身振りをしているとしても、それは導入の便宜でしかない。なぜなら、本書の出発点にあるのは、「共同体」を積極的に定義する道は袋小路に入っているという共通了解であり、少なくとも、人間全体が一致して参与する共同体を積極的に定義することは不可能であるという現状認識だからである。

実際、イデオロギーによる共同体の実験(愛国主義、全体主義、共産主義等々)が残した累々たる屍体の山は、人類の歴史における数多の教訓の最たるものであるし、同一の神を奉じているにもかかわらず、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教とが、千年単位の文化的軋轢を続け、それが時に暴力で表現される現実を目の当たりにすると、宗教もまた、共同体の可能性を託す場所としては、あまりに悪所であると言わざるをえない。

そもそも論理的に言って、共同体という概念自体が、外部と内部を必然的に生み出す性格を有している。そして共同体の成員/非成員の区別(差別)は、状況次第で、敵/味方という布置に容易に転化していく。共同体という思考は、根本的に全体主義的であり、全てか無か、敵か味方かという論理を内包している。だから、今必要なのは、全員を満足させる共同体が不可能だという現実から出発すること、すなわち、利害を共にしない複数の共同体(ないしは個人)が対面する世界において、どうやったら彼らが敵対せずに「共にあること」、共に共存していくことが可能なのかを考えることである。本書の意義もそこにある。

こうした本書の可能性をもっとも表現しているのが、増田が明晰に論じるデリダの姿勢である。どういう形のものであれ、本人が家系的に属するユダヤ人のそれであれ、いかなる形の「共同体」という言葉も物も好きではないというデリダの態度は、まさしく、この新しい「共にあることの哲学」を考えるためのエンブレマティックな態度である。

例えば、筆頭の澤田は、いかにサルトルが読者と作者による共同体を文学に投影させていたかということを紹介し、来たるべき共同体、すなわち、「人間」(=人類)の共同体を希求していたということを紹介する。それは岩野の論で紹介されるアセファルという秘密結社を企てたバタイユも見ていた全員一致の共同体の夢である。だが、澤田も岩野も、これら二人の思想家の夢を延長させる方向では結論しない。前者はエスポジトやアガンベン、バルト、クレオール文学へと開くことを提唱し、後者はより鮮明にバタイユの失敗を結論づける。両者がともに示唆しているのは、共同体を積極的に定義するのとは別の方向で考えることの必要性である。

ブランショとバタイユから発想する湯浅の論も、前半はきわめて明瞭な文章で「われわれ」や「同志」の共同体の限界を語る反面、それを乗り越えるはずの「恋人たちの共同体」の説明になった途端、「未知なる何か」や「特有なマチエール性と思える次元に深くつながれた仕方で生きた何か〈ほとんど身体的=感覚的な興奮や昂揚という仕方で生きた何か〉」といった困難な表現でしかそれを説明できなくなるのは、共同体の希求という枠組みで考察していくことの限界を自ら誠実に例示している。また、合田の論では、ローゼンツヴァイクとの対照を軸にレヴィナスの共同体をめぐる思考が再検討されて興味深いが、その専門性の高さに、置き去りにされる読者が少なからず出るかもしれない。

坂本の論では、フーコーが「共同体」という枠組みを早くに放棄し、「統治」という観点から考えていたことが明晰に論じられる。増田のデリダ論と同じく、共同体の袋小路をぬけて「共にあること」を考える新たな道を教えられた。

最後の藤田の論は、前半の強面の語り口には呆然とさせられたが、結論で予告される実践編での展開、すなわち、個人ではなく「分人」(人格内での多重人格)という概念の再利用には、共同体論の袋小路に思わぬ風穴を開けてくれる可能性を感じる。ドゥルーズも言うように哲学者の仕事は「概念を作ること」なのだから。近刊だという実践編も待ち遠しい。
この記事の中でご紹介した本
共にあることの哲学 フランス現代思想が問う<共同体の危険と希望>1 理論編/書肆心水
共にあることの哲学 フランス現代思想が問う<共同体の危険と希望>1 理論編
著 者:岩野 卓司
出版社:書肆心水
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