自画像の告白 ─「私」と「わたし」が出会うとき 書評|森村 泰昌(筑摩書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年8月9日 / 新聞掲載日:2016年5月20日(第3140号)

批評性に満ちた美術論 
西洋美術史の定まった読み解きを破壊する

自画像の告白 ─「私」と「わたし」が出会うとき
著 者:森村 泰昌
出版社:筑摩書房
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泰西名画の人物や女優などに扮したセルフ・ポートレイト作品で有名な森村泰昌が、自画像を描いた画家たちが告白する物語を書いた。サブタイトルの「私」は画家たちを、「わたし」は森村を意味し、その出会いから生まれた物語は、批評性に満ちた美術論となっている。

ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のように並ぶ「私」たちは、「不在であることが存在の証」と欠席したデュシャンも含め、ルネサンスから20世紀までの十三人。

<ラス・メニーナス>で、スペイン王室のフェリペ四世を鏡の中に小さく、画家自身を大きく描いたベラスケスは、「鏡の中のぼやけた小さな存在としての王は、もはや王が遠い過去の存在であることを示し、王宮は滅びる。」と予感し、「宮廷人としてあれほどまでに王に忠誠を誓ってきた私が、王を殺したのです。」と告白する。

オランダで、「自分とは何か」という哲学的探求でなく、自画像が売れ筋商品だったために自画像を描くのに徹したと言うレンブラントは、俗物としての自分から目をそらさなかった。<俗物>という言葉に、レンブラント・ファンは後ずさりしそうだが、画業の評価は未来に託すという言葉に納得する。

マリー・アントワネットを描いた美しいヴィジェ・ルブランは、政治や宗教に縛られるはずのない文化施設まで攻撃の対象とする貧しさによる怒りの話をする。パリでのテロを想起させるこの告白をはじめ、画家たちの告白は現代と行き来している。自画像から抜け出たゴッホは、憧れた黄金の国ジパングの渋谷駅前交差点などを歩きまわり、「ぼくが誰だかいまだにわからない」と若者たちと同じ悩みを絞り出している。

「私」たちの告白は、言葉だけでなく視覚性を伴うだけにわかりやすい。たとえば、ダ・ヴィンチの性的志向を示す網タイツ、カラヴァッジョやフェルメールの光の秘密をみせる空間装置など美術家でしか表現できない魅力である。ウォーホルの作品、石けん箱のBrilloが、森村の名前Morilloになっているのにも笑わせられる。

森村にはヒットラーを主題にした「何ものかへのレクイエム 独裁者を笑え」など多くの作品に歴史に対峙しようとする目を感じるが、実家の茶販売店で昭和天皇とマッカーサーが並んだ作品のように、その目は常に自分史と交わっている。本書の画家たちの告白内容も、美術家としての「わたし」の妄想と交わることにより、西洋美術史の定まった読み解きを破壊する力を強めているのである。
この記事の中でご紹介した本
自画像の告白 ─「私」と「わたし」が出会うとき/筑摩書房
自画像の告白 ─「私」と「わたし」が出会うとき
著 者:森村 泰昌
出版社:筑摩書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「自画像の告白 ─「私」と「わたし」が出会うとき」出版社のホームページはこちら
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