【山田詠美氏ロングインタビュー】 言葉の可能性を極限まで高める 『珠玉の短編』(講談社)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年7月1日 / 新聞掲載日:2016年7月16日(第3146号)

【山田詠美氏ロングインタビュー】
言葉の可能性を極限まで高める 『珠玉の短編』(講談社)刊行を機に

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作家・山田詠美氏が、川端康成文学賞受賞作「生鮮てるてる坊主」を含む短編集『珠玉の短編』を上梓した。『放課後の音符』『色彩の息子』『風味絶佳』など、数多くの短編集を刊行してきた山田氏だが、短編集を編む時には、必ずテーマを自身の中で設定してから執筆をはじめるという。今回挑んだテーマは、「言葉」。言葉の可能性を極限まで高めることを、一貫して追求した。山田氏に、お話をうかがった。聞き手は、昨年、本紙文芸時評を担当したライターの倉本さおり氏にお願いした。(編集部)
予定調和を崩す

――この短編集に収録された作品は、それぞれ近い時期に書かれています。これらの作品を執筆していた時は、どういうモードだったのでしょうか。
山田
 私の場合、短編集を編む時は、必ずメインのテーマを決めてから書いていくんですね。今回は、ひとつの言葉から、いろいろなエピソードやイメージを引っ張り出してきて、言葉で思いっきり遊んでみようかなと思って、書きはじめたんです。以前の短編集でも、そういう短編を、ひとつふたつは入れていたんですが、人間性を深く掘り下げるというよりは、まずは言葉ありきで、私がこれまで培ってきたボキャブラリーを使いながら、言葉の持つ面白さを楽しむ。ひとつの言葉が持つ多様性・多面性を、自分の中でどれだけ引き出せるのか。そこにチャレンジしてみようと思いました。言葉ということに限定して考えてみると、誰しもが自分の中に、ものすごく面白いものがいっぱい詰まっている。大抵の人はそれに気づかないで、普通に言葉を使っているんだけれども、小説家はそれを引っ張り出すことができる。たったひとつの言葉でも面白がれる。そういう言葉の可能性を一貫して追求し、書いていこうと思いました。

――言葉の持つ面白さ、多様性・多面性を引き出す。それは表題作の「珠玉の短編」にまさに表われていることだと思います。個人的な体験で申し訳ないんですけれども、以前、アン・ビーティーの短編集の書評を書いた時に、「珠玉の短編」という表現を使ってしまったんです。自分の中では、アン・ビーティーという作家の特質を考えると、粒が揃っているという感じがあって、そんなに違和感はなかったんですが、文芸評論家の栗原裕一郎さんに、「「珠玉の短編」という言葉は使ったら負けな気がする」と言われました。それですごく反省したんです。元々の語源をたどれば、美しい言葉ではあるはずなんですが、使われ方によっては、とても安っぽい言葉に堕ちてしまう。
山田
 文芸誌の編集者でも、やっつけ仕事で「珠玉」と使ったりするでしょ。まあ「真心の掌篇」か「珠玉の短編」と付けておけばいいだろうみたいな感じで、目次の惹句を考える。私自身、デビューした頃に随分そういう目に会って、カチンと来ていたから、そのことがずっと頭にあったんです。そんなこともあって、どうせだから今回は、ちょっと面白くやってみよう思いました。ただ、ひとつの言葉から様々なものを引き出して、小説として構築していくのは、かなり面倒くさい作業ではありましたね。

――表題作の中で、主人公の夏耳漱子は、自ら書いた小説に「珠玉の短編」と勝手に付けられてしまう。自分の作風とはまったくかけ離れた、その言葉に憤り、混乱し、そこから「珠玉」という言葉について、一所懸命考えるわけですよね。どんな言葉が「珠玉」にふさわしいか。たとえば「はらはら」とか「光」とか「感傷」という表現がそうなんじゃないか。では「はらはら」に合う単語は何か、「衣ずれ、花びら、木の葉、涙、露、心優しい心配」といった言葉を思い付くけれども、やはり自分の小説には無縁のものだと感じる。
山田
 そう。「はらはら」だったら「桜の花びらが散る」とか、収まりがいい言葉の組み合わせってあるでしょ。でも、そういう予定調和って、小説家にとっては、ものすごい敵だと思うんですね。その言葉の予定調和を崩していくのが、小説家のひとつの仕事でもある。それと同時に、言葉が持つ意味を、額面通りに受け取ったらどうなるか。そういう面白さもあるわけね。今回の短編集は、両面を書いていったところがありますね。

――夏耳漱子は、「珠玉」という言葉にどんどんとらわれてしまって、真剣に考えた結果、作品を自ら書き直すまでに至ります。最終的に書き直した文章も全文載せられている。これは結構勇気がいるなと思いながら読みました。しかも末尾は元の文章とまったく同じように「おれもやる。」で終わっていて。読者としては、自分の中の言語体系を脱臼させられたような感覚を味わうというか。
山田
 二十年以上前に『快楽の動詞』という短編集を書いたんですけれど、その中に「ベッドの創作」という短編があって、あれが「珠玉の短編」で書いたことに通じていると思います。あの時は、セックス描写の違いについて考えるというのがひとつのテーマとしてあって、文学風とポルノ風と書き分けてみたんですね。あるセックスシーンを、文学として書くのとポルノとして書くのと、並べて置いた。ちょっと実験小説風の短編集で、「珠玉の短編」もそんな小説の系列にあって、私の中には、そういうことを楽しむ性質が常にあるんだと思いますね。

――お話をうかがっていてもそうですが、「珠玉の短編」には、実体験が反映されているのではないかとうかがわせる部分がありますよね。たとえば「編集者の小説に対するみくびり」という言葉があって、胸に刺さりました。
山田
 さすがに今は、小説をみくびる編集者と付き合わないで済むぐらいにキャリアを積んだので、そういうことはなくなりましたが、デビューして何年かは、そんな人が山ほどいました。「彼の瞳は饒舌である」と書いたりすると、「目は話さないのでは?」とか言って、平気で文章を直してくる編集者がいましたから。

――夏耳漱子は年齢的にも、編集者からそういう理不尽なことを言われがちなポジションにいるんですよね。それから「女性作家らしからぬ」とか「女だてらに」とか、周囲から揶揄されたりする。これも山田さんご自身が、言われつづけてきた言葉が混じっているのかなと思いました。今の二〇代、三〇代の女性作家は、流石にそんな言葉をかけられるようなことは少なくなってきたと思いますが、山田さんがデビューされた頃は、まだそういう時代だった。
山田
 そうですね。私たちぐらいの時は、よく言われましたね。だけど今でも、男の人に対して「女々しい」とか、普通に言ったりするでしょ? みんな気がつかないうちに、平気で使っている。そういう言葉に敏感に反応するセンサーみたいなものを、小説家は持っていないと駄目だと思いますね。もちろん、それをいつも追い求めているわけじゃなくて、日常生活の中で、常に言葉を面白がりながら考えて使っていると、必ずそういうものが耳に飛び込んでくる瞬間があるんですね。そうした経験が、今回の短編集には出ているんだと思います。
洗練されたうえに野蛮

珠玉の短編(山田 詠美)講談社
珠玉の短編
山田 詠美
講談社
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――加えて「珠玉の短編」ですごく面白かったのが、文豪への茶目っ気のあるからかいが書かれているところです。「彼岸過迄」を茶化して、自分のデビュー作のタイトルを「土用の丑まで」にしたりとか、「それから」でいいんだったら「だからよ」という題名でもいいだろうとか(笑)、「文豪のやらなかった汚れ仕事を一手に引き受けてやるという自負もあった」とか、いわゆる既成の「文学」のイメージに対する、反骨精神みたいなものを描かれているのかなと感じられて面白かったです。そのことは「夏耳漱子」というペンネームにも端的に表われていると思いますが、実際に漱石の小説を読んでいなくても、漱石的なるものが私たちの中にイメージとしてあって、それをそのままにして、実際に触れずに過ごしてしまっていると、「珠玉」みたいな言葉を不用意に使ってしまうようなことが起きるのかなと思いました。
山田
 川端康成だったら「伊豆の踊り子」を反射的に思い浮かべてしまうのと同じように、たとえ小説を読んでいなくても、小さい頃から確立されてきた文学に対するイメージが、みんなの中には必ずありますよね。そこを崩したうえで、もう一回、漱石なり川端の作品を面白がってもいいんじゃないか。そう思って、書いているところがありますね。

色彩の息子(山田 詠美)集英社
色彩の息子
山田 詠美
集英社
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――そこはまさに『賢者の愛』の時の話にも重なってくることだと思います。実際に谷崎潤一郎を読んでいなくても、谷崎に対しては、ちょっとエロくて背徳的なイメージを、多くの人が持っている。でも実際に読み返すと、そうしたイメージとはまったく違う作家の姿が浮かび上がってくることがあります。そのことと繋がる話だと思うんですけれども、今回の短編集は、ある種の野蛮さがあるなと思って読んでいました。今までの短編集では『色彩の息子』や『風味絶佳』、あるいは『A2Z』がそうだと思いますが、職人芸というか、一字一句が、ものすごく慎重に、綺麗に磨き抜かれたイメージがあったんですが、今回は、生々しくて野卑、という印象を受けたんです。
山田
 最近よく思うのは、洗練した文章を書くのって、ある意味では、簡単だということなんですね。洗練されたうえに野蛮を持って来るのって、テクニックもキャリアも必要になるんです。その野蛮さは、単に拙いのとは違う。丹精を込めた盆栽みたいなものがあったとして、枝を切り込んでいくうちに、どこを切っていいのかわからなくなって、一旦全部をチャラにして、そこからはじめる。アヴァンギャルドって、そういうことだと思うんですけれど、この短編集では、それにトライしたような感じがしますね。

――よくわかります。「珠玉の短編」には、過去の文豪や文芸作品への言及が結構出て来ますよね。でも、それに合わせて文体を寄せていくのではなくて、あえて野卑な感じに走っていったりする。以前、長編と短編の違いについて、長編はゴールへの想像力が必要であり、短編はスタートラインにおける反射神経や瞬発力が大事だという話をされていました。最初の話に関連しますけれども、ひとつの言葉を面白がる気持ちとか、みんなが使っている言葉への違和みたいなものが、瞬発力なり反射神経の根っこにあると考えてもいいのでしょうか。
山田
 そうですね。今回の短編集は、まずは、はじめに言葉ありきで書いていったという感じだと思います。

――ただ、言葉ありきでここまで押し切るのは、かなりの体力・エネルギーがいるのではないでしょうか。
山田
 それは、キャリアがないとできなかったと思いますね。下手に手を出すと、単なる気取った実験小説になってしまうと思うんです。自分が面白がっていることを、小説を読んでいる人にも、同じように面白がってもらいたいと思いながら、客観的に構築していく難しさって、やっぱりあるんです。今ちょっと話したけれど、盆栽にしても、ただ無茶苦茶に切ってしまったら面白くない。ちゃんと面白がらせる、そこに接ぎ木できるような、そういうテクニックがないといけない。だから、この歳になったからようやく書けたなという感じがしますね。 
「いい意味での裏切り」

――デビューから三〇年のキャリアを積まれた今だからこそ、言葉がうねるような、枠からはみ出していくような作品が書くことができたということでしょうか。
山田
 そうですね。


――確かに若い人、特に新人賞に応募される小説を読んでいると、大袈裟に振りかぶった言葉遊びがすべってしまっているというか、その面白さがこちらに伝わって来ないものが多いですね。
山田
 「俺って、新しいことやってるぜ」という気持ちが見え見えで、でも、あんたがやっていることなんて、何百年も前に誰かがやっているんだよと思うことが多いですよね。先人がやってきたことを知ったうえで、あえて書くということとは、まったく違いますね。

――「トラディショナルなものを馬鹿にしちゃいけない」というお話を、以前されていましたよね。そういうものを経ないと、言葉に対する違和感を面白がることもできない。
山田
 それは、デッサン力がなければ抽象画が画けないのと同じことだと思います。

――ひとつひとつの短編についてうかがっていきたいと思います。川端賞受賞作の「生鮮てるてる坊主」は、「友情」という言葉に端を発して描かれた作品ですよね。
山田
 「友情」って、すごく素晴らしいもののように思えるし、主人公たちも最初はそう思っているんだけれど、それがいかに人を圧迫し、ある時は武器にもなって、人間をモンスターに変えてしまうこともある。人によっては、「友情」というものが、その種のものになってしまうんだということを書いてみました。

――不気味な小説ですよね。次第に心が病んでいく虹子自体、最初から不気味なんですが、虹子の夫・孝一とは「友情」関係にある語り手の女(奈美)に対する気持ち悪さが、全面から伝わってきます。孝一と自分のことを「私たち」と、虹子の前で口にしてしまったり、孝一を介在させながら、相手を見下したうえで、喜びに浸っている。そのことに自ら一切気づいていないところとか。山田さんのこれまでの小説は、私の勝手なイメージでは、美しく破れる者たちであるとか、悪いものやだらしのないものを持っている人なんだけれど、どうしようもなく惹かれてしまう美しさがあるんだということを描かれることが多かったと思います。ただ「生鮮てるてる坊主」の奈美は、美しさからはちょっと遠い存在のように思うんですね。それは最初から意識されていたのでしょうか。
山田
 そこはあまり意識していなかったですね。書いている途中は、普通の恋愛小説になるのかなとも思ったりもしたんですが、そうじゃなくて、「友情」というものがどんなふうになっていくか、そのことだけ追っていこうとしたら、次第に言葉が付いて来てくれた感じです。それが最後のてるてる坊主がぶら下がっているイメージに帰結していったように思います。書いている時は意識していないんですが、雨のシーンを書いているところから、あのイメージがなんとなく浮かび上がって来たんじゃないかと思います。雨が降り出すところを書いている時には、一体これはどうなるのかなと、自分でも思っていました。でも、言葉をきちんと選びながら書いていくと、自然とこういう感じになっていきました。最後の場面を書いている時は、この短編はこう終わるために、こういうタイトルを付けたんだなと思いましたね。

――では短編小説の場合も、最初から最後の部分が想像出来ているわけではないということですか。
山田
 短編小説を書く時は、最初にある程度は構築しておきます。でも考えるのは、前半ぐらいまでですね。結局、自分が考えていたものと違う感じになって来ることが多いから、話の進む余地を残しておいて書きはじめるんです。あとは書きながら、ラストに向かっていくという感じかな。それで……ここで私の嫌いな言葉を使っていい? 「いい意味で、読者を裏切りたい」のね(笑)。「いい意味での裏切り」。これでスピンオフをもう一作書けそうだね。

――その作品、楽しみにしています(笑)。たしかに、そう表現するしかないんだけれども、使ってしまうと負けになってしまう言葉ってありますよね。「珠玉」にしてもそうですし、言葉の問題はやはり難しいですね。まさに象徴的だなと思ったのが、武田砂鉄さんの『紋切型社会』です。「紀伊國屋じんぶん大賞2016」の四位にランクされましたが、クリシェや紋切り型の言葉、キャッチフレーズといったものに対する違和感に関して、言いたいことをズバッと書きつつも、考え方にものすごく奥行きを持たせてくれる本でした。
山田
 あの本は面白いよね。武田くんみたいな書き手が出て来ちゃうと、単に毒舌で書いていた人たちの底の浅さが見えてしまう。

――論旨が決め打ちではないし、ひとつの言葉から、そこにつながるさまざまな糸を引っ張り出していって、本来言葉が持っているはずの柔軟性を復権させるみたいな感じの書き方をしているんですよね。でも逆に今は、オチのある話にみんなが慣れすぎちゃっているところがあります。だからこそ紋切り型の言葉に飛びついてしまう。
山田
 たとえば「感動をありがとう」という言葉ひとつとっても、単にテレビで流されている言葉を、送り手側の意図通りに受け取ってしまう人と、その言葉からどんなに皮肉で面白いことを引き出せるのかを考える人がいる。ものを書く人って、後者でありたいと思うんですね。あからさまにステレオタイプのものを提供する。そういう役割の人もいると思うんだけれど、私はそうでありたくない。だからこそ、こういう七面倒くさい、ひねくれたものを書きたくなる(笑)。
「遊びもの」としての言葉

――今回の「珠玉の短編」は、どの短編も、結末が、最初自分が想像していたのとは違う方向に進んでいくんですよね。しかもその取っ掛かりが全部言葉であるという点が読んでいてすごく面白かったんです。最初に、ひとつの言葉の多様性・多面性を表現したいとおっしゃっていましたけれども、言葉がどれほど広がりを持ちうるものなのか、そのことを十一本の短編を通して表わされているのがよくわかりました。また、人によって、ひとつの言葉に対する感じ方が違う。たとえば「箱入り娘」を読んでいると、語り手の私(池沼治子)と、我儘いっぱいに育ったお金持ちの家庭の女の子(浅倉美津子)がいて、心の持ちようの違いがくっきり表われるところがあります。それはこの短編集全編にわたってあって、自分の信じていたものが、他人の信じていたものとは違ったということを共通して書いているのかなと思いました。
山田
 言葉って、最初に言ったけれど、額面通りに受け取っても面白いところがあると思うんですね。たとえば私の母が「それは耳が痛いわ」と言ったりすると、うちの家族はみんな、「イタタ」って耳をおさえて、痛いふりをするわけね。「足元を見る」と言われたら、みんなで足元を見たりする。そういう言葉の面白さもあるし、そこから全然違うことを想像して受け取る面白さもある。普遍的に考えられている意味とは離れて、「遊びもの」みたいな役割も、言葉は果たしている側面があるから、そこをもうちょっと面白がってもいいんじゃないかなと、私はいつも思っているんです。

――もっと面白がってもいい、というのは物語の運びに関しても言えることではないでしょうか。「箱入り娘」であれば、語り手と金持ちの女の子との別れがラストに来るのかなと思ったら、実は自分の母と美津子の父が出来ていたという話が最後にあったり、「命の洗濯、屋」だったら、息子がお客さんと出来ていたりとか、そちらの方向に話が展開していきますよね。
山田
 みんな結構簡単にセックスしてるよね(笑)。

――ただそのことが悲劇のはじまりという感じではなくて、ちょっとした、軽い弾みみたいな感じで起きているところが面白いんですよね。
山田
 そこはデビューから一貫していると思いますね。デビュー作自体、ちょっとしたことから寝ちゃう話だから。

――そういうスタンスに対して、当時は「ふしだらだ」みたいな言われ方をしていたのが、今では、そんなことはまったく言われなくなりましたね。
山田
 本当。もう少し真面目にやれと言いたくなるよね(笑)。

――そうした世間的な意識の変化も、読んだ時の味わいに影響してくるのかなと思いました。あの頃は、ふしだらでも、ちょっと憧れるみたいな感じがあって、自分たちが、本当はやりたいんだけれどなかなかできない。だから山田さんの小説を読んで、憧れを感じていたんだと思います。でも今は、当たり前になってしまったところもあって、ではその時に、どう価値を転倒させるのか。
山田
 今度は、真面目な貞操の話を書いたら面白いかもしれない。

――「蛍雪時代」の最後にしても、叫び出したいぐらい酷い状況であるはずなのに、「こんなの初めて、いただきました」と言ってあっさり終わる。あそこが大好きなんです。このコミカルさってなんだろう、ここに来るかと。
山田
 本当だね。ポジティブだよね。まあ苦しい状況の時ほど、「レッツ・ポジティブ」ということで(笑)。こんな英語あるのかな?

――私たちがつい想像してしまう、お決まりのパターンであれば、あそこで血みどろの愛憎劇がはじまる。でも、そこからは軽やかにずれて、すっと飛んでいく感じの作品ばかりで、これは今までお書きになった短編とはまったく違う味わいだなと思いました。
山田
 味わいなんてあるのかな(笑)。

――「味わい」的な、余韻的なものは、今回は最初から排除しようとされたということでしょうか?
山田
 そうです。今回は、そんなの知ったこっちゃないよっていう感じでしたね。余韻とか味わいとか、感動をありがとう的な話は一切やめる。繰り返しになるけれど、言葉って面白いということを中心に持って来て書きました。
その人だけの一冊

風味絶佳(山田 詠美)文藝春秋
風味絶佳
山田 詠美
文藝春秋
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――関連した話ですが、表題作「珠玉の短編」にすごく好きな箇所があるんです。「漱子は、行間嫌いである。読者に、文と文との間から、都合の良い希望など感じ取って欲しくないのである。隙間にパテを塗り込めて塞いでしまうがごとく、何リットルかの血の描写を注ぎ込んで、想像の余地を奪ってしまいたい」。
山田
 その十分の一ぐらいかもしれないけれど、私にも同じような感覚はあると思います。

――でも読者の中のイメージでは、『色彩の息子』や『風味絶佳』にしても、磨き上げられた玉から余韻を感じ取ることができる、そんな短編集だったと思うんです。山田さんはある種、行間の神様だと思っていたので、今回すごく意外な感じも受けました。
山田
 そうかな? でも私って、行間から何かを感じ取ってもらうような作家ではないんじゃないかな。やっぱり限定して書いている方だと思う。ただ、何かしら感じてもらえるならば、それは読者の自由であって、そこは期待するところでもありますね。こっちは限定して書いていたとしても、読者の人が自分なりの行間を作ってくれて、そこに勝手に何かを押し込んでくれる。そういう感じで読んでいただけるのは望むところだし、読者の特権と言っていいかもしれない。前に奥泉光が、いいこと言っていたんだよね。「ひとつの小説というのは、作者の中だけでは終わらない。作者が作者としての仕事を終えたあとに、読者が小説を読む。そこでその人だけの一冊の本が完成する」。この人、格好いいこと言うなあと思った。

――『賢者の愛』でお話をうかがった時、谷崎は外見描写を細かく書くわりには、内面描写はあまりしていないとおっしゃっていました。山田さんの『賢者の愛』の場合、外見描写はさらっとしていながらも、どんな女だったのか、あるいはどんな男だったのか、すごく細かく書き込んでいる。それがイメージを徹底的に限定させることにも繋がるとおっしゃっていました。今回の場合はいかがですか。
山田
 本来の私って、決定打の言葉を並べて、自分のイメージを読者に限定して差し出したいという思いがすごく強いんですね。今回言葉の面白さを追求しつつも、もしかしたら、そうやって何十年も書きつづけてきたことによって培われてきた何かが、この短編集の中に付随して表われているのかもしれませんね。だとしたら、それはキャリアの効用かなと思います。ただ人物に限らず、あるひとつのシーンを取っても、隙間まで全部細かく書かなくても、イメージを限定させる、そういう書き方もあって、言葉遊びをメインに置いて書いたとしても、ちゃんと短編として成り立つように書き上げられたんだと思います。そういう意味では、歳をとるのもいいかなと思いますね。

――最後に収められた「100万回殺したいハニー、スイート ダーリン」についておうかがいします。この短編だけ、他の作品とはちょっと違うタイプものですね。
山田
 そうですね。これは佐野洋子さんに捧げられたものだから。

――佐野さんの『100万回生きたねこ』がモチーフになっていて、いろんな人があの本を読み、読んだ人の中でも、感じ方にかなりのグラデーションがある。それが小説の中によく表われているように思いました。
山田
 佐野さんご自身も、多様な面を持つ人でしたよね。こちらが安易に何か言うと、「あんた本当にそう思ってんの?」って詰問してくるような人だったけれど、そんな毒舌のうしろには、すごくシャイなもの、かわいいものを隠している人だった。その「かわいい」という言葉ひとつとっても、人によって、いろんな感じ方がある。かわいいの価値観が違っていて、選び出すものが全然違ってくる。そういう言葉の可能性があることを、読者に知ってもらいたいなと思いますね。
顰蹙こそ文学

――そのことに関連することなのですが、「生鮮てるてる坊主」の中に次のような描写があります。「私と孝一のような信頼関係をはなから理解出来ない、という一点で、虹子は私たちと同等ではなかった。夫からは常につたないものとして扱われていた。そんな彼女に、私は少しも同情しなかった。孝一は、つたなさに女としての美点を見る男だと知っていたからだ。それは、女を見くだしていることとは違う。彼の感じるつたなさは、そのままあどけなさへとつながり、男としての庇護本能を満足が行くまで刺激するのだった」。女性のつたなさに惹かれる孝一に対して、単にそれは男の好みのバラエティのひとつとして、奈美は考えていて、特に問題視はしていません。でもフェミニズムの人の中には、「庇護本能を刺激する」なんて言うと、敏感に反応する人もいますよね。
山田
 だから私は、フェミニストじゃないと思う。野獣みたいな男が好きだから。そんな男にはひれ伏せばいい。そういう時は自分をマゾヒストに改造するわけね。そうすると向こうは、自分の快楽の餌食になる。そんな反転の仕方だってあると思いますね。

――最近は、性差を均したような小説が増えて来ていますよね。フェミニズムというものがある程度進行して、みんな迷っているところもあるのかなと思うんですけれども、その時に、男女の差というものをどうとらえて、作家は小説に向かっていけばいいのでしょうか。
山田
 今言われたような傾向が確かにあるのならば、別のことを書かないと駄目だと、私は思うんですね。小説を書くこともそうだけれど、読むことって、極めて個人的な行為でしょ。本を読んだ人ひとりひとりの個人的な思いがいくつか集まって、共感になる。それを、こういう小説がいっぱい出て来ているから、それに自分も乗ってみるとか、フェミニストの立場から、ひとくくりにまとめて書いてみるとか、小説って、そういうものではない。言葉を扱うものは、そこは注意してかかりたいと思いますね。

――本の帯に「最高の顰蹙をあなたに」とあって、この顰蹙という言葉とも関わってくる問題なのかなと思います。つまり私たちがこうあるべきだと思うものに反しているから、顰蹙を買う。でも、そもそもこうあるべきだと思うものこそ、ものすごく危ういものであって、疑ってかからないといけない。
山田
 そう思いますね。

――『顰蹙文学カフェ』で、瀬戸内寂聴さんとお話をされていて、歳をとると、顰蹙が正常化されて、清らかなものになるということをおっしゃっていましたよね。
山田
 そうそう。顰蹙もあそこまでいくと、素晴らしい。あの境地に至るまで、私もがんばります(笑)。小説家の顰蹙って、どんどん作品に凝縮されていくと思うんですね。最初デビューした時には、アティチュードや生活スタイルで顰蹙を買っているのが、段々と作品に移行していく。本当に作品だけに目が向けられた時こそ、勝負だと思いますね。

――顰蹙を買うことが文学だという一方で、逆に今の社会を見ていると、不謹慎狩りみたいなことがよく言われていますよね。作家たちがそれに立ち向かう姿勢を見せはじめている印象もあります。これまでそういうキャラではなかったはずの人まで含め、同様の動きがあるんじゃないか。エビデンスのある話ではありませんが、やはり背景には、言論の自由が脅かされているということへの危機感もあるのでしょうか。
山田
 どうなのかなあ。ただ、もしそういう状況があったとして、先頭に立ちたがる人って、いつの時代にもいるから。でも私は、小説家って、一番最後にいくべき人間だと信じているんですね。簡単な言い方をすると、ボロを出したくないと思っているのと同時に、ちゃんとコンプリートしたいという気持ちがあるからです。いい加減なところで無責任にやりたくない。やるならば完全に責任を取りたい。そういう思いが強いですね。

――ひとつひとつの言葉に責任を持ちたいということでしょうか。
山田
 そうです。よくこういうふうに言うじゃない。小説家は、炭鉱の中に入っていくカナリアであるべきだと。有毒ガスが出たら、すぐに鳴いて知らせる役目を果たすべきである。私はそうじゃないと思うのね。たとえ炭鉱の中に入ったとしても、死ぬ間際まで事態を見届けてから死んだ方がいい。ラスコーの壁画みたいに、トンネルの壁面に、何があったかを書き残す。近頃の若者はこうだとか、そんな話を書いたっていい。

――そういう見方をすると、また違う景色が見えて来ますね。ただ多くの作家の方たちが今、かなりの危機感を持っていて、その危機感を表わした作品が増えているようにも思うんですね。
山田
 それを言うならば、人ひとりの人生は、すべて危機感だらけでしょ。私は、まとまった塊の危機感ってあまり信じていないし、興味はないんです。大きな事件や天変地異があったとしても、私が気になるのは、その中にいるひとりひとりの人生だから。「死者何万人」という言い方をするならば、何万回の死を書かないといけない。それは遠い道のりだけれど、そういうことを地道にやっていくのが小説家の仕事だと、私は思っています。

――山田さんは昨年まで、文藝賞の選考委員も務めていらっしゃいました。新人賞に応募して来る人は、言葉に対してある程度の意識を持っていると思います。ただ、そういう人たちの作品にまで、言葉狩りに対する恐れが見えたり、あるいは移人称小説が流行れば、そのスタイルの応募作が増えたり、新人までが均された小説を書くようになってしまっている気もします。
山田
 もちろん自分で嫌いな言葉を書く必要はないけれど、恐れている言葉をちゃんと書かないと、デビューは出来ない。たとえデビュー出来たとしても、本当に小説家になるには、恐れている言葉をあえて書かなければ駄目だと思いますね。新人賞受賞者で残る人は、十年にひとりぐらいのものです。今、ツイッターとかを見ていると、結局は最大公約数に受ける言葉ばかりですよね。そうじゃなくて、言葉って、人に嫌われてなんぼみたいなところがあって、そうやって使われることによって初めて面白いものになる。そういう面白さを、もっと知って欲しいと思いますね。
この記事の中でご紹介した本
珠玉の短編/講談社
珠玉の短編
著 者:山田 詠美
出版社:講談社
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色彩の息子/集英社
色彩の息子
著 者:山田 詠美
出版社:集英社
以下のオンライン書店でご購入できます
風味絶佳/文藝春秋
風味絶佳
著 者:山田 詠美
出版社:文藝春秋
以下のオンライン書店でご購入できます
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