沖縄戦と孤児院 戦場の子どもたち 書評|浅井 春夫(吉川弘文館)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年8月13日 / 新聞掲載日:2016年5月27日(第3141号)

沖縄戦と孤児院 戦場の子どもたち 書評
戦争が生み出した孤児に本格的に光を当てた労作

沖縄戦と孤児院 戦場の子どもたち
著 者:浅井 春夫
出版社:吉川弘文館
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住民を巻き込んだ凄惨な地上戦。本土防衛の「捨て石」とされた沖縄戦は、多くの孤児を巷にあふれさせた。だが、当時の孤児院がどのようなものであったのか、その詳細は分からず、沖縄戦研究の空白とされてきた。本書は、児童養護施設の指導員を務めたこともある著者が、数少ない史資料と聞き取りをもとに、パズルを埋め、点と点を結びながら、初めて本格的に光を当てた労作である。

筆者は孤児院で暮らした多くの人に話を聞いた。「自分のそれまでの人生をコンクリートで固め、海に捨てたい」と語る人がいた。職業を明かすことを言下に拒否する人もいた。傷は癒えてなどいない。著者はかつての孤児たちが抱える闇の深さを知るのだった。

沖縄本島には、北の辺土名から南の糸満まで13か所の孤児院があった。糸満の文献は確認できず場所も特定できなかった。手掛かりとなったのは当時の新聞。『ウルマ新報』(後の『琉球新報』)は敗戦直前の7月、防空壕の中で活字を拾い集めて創刊された。当時は米軍の準機関紙の位置にもあった。そこに糸満養護院への寄付の記事が残されていた。新聞には、「身寄りを求む」という人探しの記事が頻繁に掲載され、対面の場を作りだした。

孤児院のなかでの暮らしは凄惨を極めた。毎日のように山から運び込まれてくる子どもたちはみな栄養失調になり、感染症が蔓延した。縁側に寝かされても翌朝には半数が息絶えた。亡くなった子たちは「シニイジ」と呼ばれた。亡骸は汚物にまみれ、朝鮮の女性たちがダンボールに入れて埋葬したという。なぜ朝鮮の女性は孤児院にいたのだろうか。著者はその謎に迫る中、新たな事実に突き当たる。

沖縄戦には、およそ1000人の朝鮮人女性が日本軍の「慰安婦」とされ深刻な被害にあった。敗戦後、彼女たちの多くは孤児院の養育係となっていた。渡嘉敷島の慰安所で働かされたペ・ホンギさんは「女中として使ってくれませんか」という一つ覚えの日本語を使って生き延びた。慰安所から「解放」された女性たちは放浪し、受け皿となったのが孤児院での仕事だったのだ。

沖縄を占領する前、米軍はサイパンでも孤児の問題に直面した。サイパンは「玉砕」と言う名の「強制集団死」の島。親を亡くした子どもたちがあふれていた。サイパンのススペ収容所には、当時大人と子ども2万人が暮らしたが、何人の孤児が送られ、何人が亡くなったのか記録は見つかっていない。子どもたちは寝るところがなく、縁の下の砂地に上着を脱いで敷き、兄妹がからだを寄せ合って眠ることもあった。配給物は十分でなく、ご飯の焦げたところをかき集めてしのいだ。戦場では生き延びた多くの子どもが、ひもじさのなかで死んだ。著者は4年前サイパンの現地を訪ねている。孤児院があったところは広大な空き地に変っていた。近くに浅い湖があった。ここに孤児たちの魂が眠っている。今は静まり返った風景を眺めながら著者は、子どもたちの無念に思いをはせるのだった。

米軍はサイパンでの悲劇から学び、沖縄においては福祉施策を充実すべきであった。しかしそうはならず、悲劇はより拡大した。

戦争というものは必ず多くの犠牲者を生む。まだ生きる力が備わっていない子どもたちは、真っ先に犠牲となる。世界を見渡せば今もそうした悲劇を二度とくり返されている。日本もまた再び同じ轍を踏むのだろうか。沖縄戦が生み出した孤児の問題に迫る作業のなかで、著者の心にいつもよぎる切実な問いであった。
この記事の中でご紹介した本
沖縄戦と孤児院   戦場の子どもたち/吉川弘文館
沖縄戦と孤児院 戦場の子どもたち
著 者:浅井 春夫
出版社:吉川弘文館
以下のオンライン書店でご購入できます
「沖縄戦と孤児院 戦場の子どもたち」出版社のホームページはこちら
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