市民社会に絶望する勇気 白井聡『国体論』と対米従属論の流行|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年8月14日 / 新聞掲載日:2018年8月10日(第3251号)

市民社会に絶望する勇気
白井聡『国体論』と対米従属論の流行

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国体論 菊と星条旗(白井 聡)集英社
国体論 菊と星条旗
白井 聡
集英社
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白井聡『国体論』(集英社新書、4月)が売れているそうだ。対米従属論はもちろん昔からあったが、近年の「左」への浸透ぶりは目にあまるものがある。ベストセラーとなった『永続敗戦論』の文庫版あとがきによれば、同書は安保法制反対運動だけでなく、福島第一原発事故や沖縄米軍基地といった問題にたずさわる人々からも理論的に参照されているようだ。事実、この書籍のもととなった論考は、私も編集でかかわった市民運動礼賛雑誌に掲載された。当時一読して、加藤典洋『敗戦後論』の焼き直しですらない、といった感想しか持たなかったが、驚いたことに多くの読者から新しい議論として支持された。しかも、安倍政権に批判的である「左」寄りの読者から支持されたのだ。

白井がいう「永続敗戦」とは「敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く」状態を指す。「「戦後」の始まりたる八月十五日」を「終戦記念日」と呼ぶような、「純然たる「敗戦」を「終戦」と呼び換えるという欺瞞」が日本社会に巣食っている。「敗戦」を「否認」することで、米軍が日本国内に駐留しているという現在の敗戦状態から目を背けさせる。かつての冷戦においてはソ連という共通の敵が存在したが、いまやアメリカにしたがう必要はない。にもかかわらず、安倍政権は対米従属を続けるばかりであり、それを支持する日本国民は自分が「奴隷」であることにも気づかない「家畜人ヤプー」なのだ、という具合だ。ただ、いまは白井の主張の難点をあげつらうことはせず、なぜ多くの「左」がこの至極単純な対米従属論に魅了されたのか、と問うてみよう。

レーニンに関する著作もある白井はトロツキー『永続革命論』から「永続敗戦」なる造語を思いついたようだ。だが、トロツキーよりも丸山眞男と比較してみてはどうか。つまり、丸山が自身の政治的立場とした「永久革命としての民主主義」のことだ。丸山は「敗戦」を機に天皇から国民に主権が移動した「八月革命」説を唱え、そして1960年の安保闘争に「八月革命」を内実化する市民運動をみた。しかし、日本国憲法の制定はアメリカの軍事力を背景に昭和天皇に裁可されたもので、決して革命とは呼べないものだった。対米従属論は、戦後民主主義がフィクションであることを暴露することで、人々の「享楽」を刺激してきたといえる。対米従属論者の矢部宏治の著作のタイトルにあるように、日本の主権はアメリカに盗まれている、これは「知ってはいけない」真実なのだ、と。もちろん、丸山もフィクションだと認識したうえで、「戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける」という有名な啖呵を切ったわけだが。

ところで、「永久革命としての民主主義」の一定の成果と見なされた出来事があった。2009年の民主党の政権交代がそれだ。江田五月や菅直人といった民主党の議員の一部は、丸山の弟子といえる松下圭一や安東仁兵衛がブレーンとなった構造改革路線の影響下にあった。日本で1960年代以降に広まった構造改革論は、イタリア共産党が採用した革命路線で、マルクス主義者のアントニオ・グラムシに依拠している。グラムシは、労働者が武器を手にして国家と暴力的に対決したロシア革命を「機動戦」と呼び、そのような革命戦略は市民社会が発達した先進諸国では不可能であるとしりぞけた。たいして、学校や組合といった中間団体に根をおろし、市民社会のヘゲモニーを獲得することで、選挙を通じて議会で多数派を形成し国家を改革するという「陣地戦」を主張した。簡単にいえば、マルクス主義版市民社会論といったものだ。たしかに、民主党政権の誕生は、2008年末の「年越し派遣村」の湯浅誠が国家戦略室のメンバーに入るなど、「左」が市民社会のヘゲモニーを獲得したかにみえた出来事だった。いまでは隔世の感があるが、「市民革命」(山口二郎)と呼ぶ言説まであったのだ。

注意すべきは、近年の対米従属論の流行は「市民革命」なるものの失敗をきっかけにしていることだ。白井聡『永続敗戦論』、孫崎享『戦後史の正体』、矢部宏治『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』といった対米従属論が立て続けにベストセラーになったのが、民主党政権崩壊前後だったことを思い返すべきだろう。これらの著作は、米軍の普天間基地移設を「最低でも県外」と公約に掲げた鳩山内閣が9ヶ月で退陣したショックを受けて書かれている。

原発問題についてもおなじことがいえる。脱原発デモは野田政権による大飯原発再稼働決定を機に大きな盛り上がりを見せ、2012年8月にはデモを主催する活動家と野田首相の会談が実現するにいたった。再稼働の方針は変えなかったが、野田政権は2030年代までに脱原発を目指すという閣議決定をおこなおうとした。実現されていれば運動の一定の成果だったといえようが、アメリカが安全保障上の懸念を表明したことで見送られることとなった。市民社会のヘゲモニーを獲得した(かにみえた)米軍基地問題や原発問題において敗北を喫したこと、その敗北の理由をアメリカに求めたことが、戦後民主主義はまやかしだとする対米従属論に「左」を向かわせたわけだ。対米従属論の流行と市民社会への絶望は表裏一体なのだ。

すると、白井聡と松尾匡の『国体論』をめぐるウェブでの論争(?)も、ちがった角度から見ることができる(「松尾匡氏と白井聡氏による討論のまとめ」大阪労働学校・アソシエHP7/17)。天皇の「お言葉」への共感や階級的視点の弱さを問題視する松尾の批判は正しい。白井が単なるナショナリズムにおちいっていることはあきらかだ。しかし、白井はうまく応答できていないが、白井に代わって『永続敗戦論』の主張を展開すれば、こう言えないだろうか。リフレ派経済政策で貧困層を底上げし、中産階級をボリュームアップして市民社会の充実をはかり、立憲民主党を中心としたリベラル左派政権(?)が実現したところで、アメリカを排除できないかぎり、かつての民主党政権と同じく失敗は運命づけられている、と。リフレ派経済政策が戦後民主主義リベラル・デモクラシーを延命させる唯一の政策のように持て囃されているのだから、白井はこう応答すべきだった。

しかし、アメリカにすべて支配されている、と単純化させてよいものか。グラムシ的な言い方をすれば、「左」は市民社会で解決できない国家の問題に直面したのではないか。軍隊や原子力は国家による「暴力の独占」(ヴェーバー)といわれる。グラムシは市民社会のヘゲモニーを獲得することで、暴力と対峙することなく、コントロールしようとしたといえる。しかし、それが難しいのは、国家が単体で存在するのではなく、いくつもの国家との関係において存在しているからにほかならない。軍隊や原子力にかかわる政策が複数の国家の協力や対立のなかで決定される以上、一国の市民社会のヘゲモニーを獲得しただけでは大きな転換はできない。その意味で、日本でのグラムシ主義の成果として「革新自治体」が挙げられるのは象徴的だ。それは国家を回避することで可能となった「革新」にすぎない。沖縄の翁長県政の厳しい情勢を考えれば、このことはあきらかだ。

しかし、奇妙なことに、白井はナショナリズムを煽ることで、絶望したはずの市民社会に喝を入れようとしている。白井は共産党のネットTVに出演し、「野党共闘で、自民党政権の対米従属に根本的な否定を突きつけてほしい」と発言したようだ(『しんぶん赤旗』6/27)。対米従属論の果てに天皇を礼賛した白井と共産党の思想はほぼ同じだ。かねてから共産党は日本をアメリカの「事実上の従属国」とみなしてきた。天皇制に関しては「民主共和制」の実現を掲げているが、第1回国会以来欠席してきた天皇臨席の国会開会式に参加するなど態度を軟化させている。しかし、野党共闘とはまさに市民社会の「陣地戦」ではないか。憲法9条=天皇制護持という護憲派がナショナリズムに行き着くのは当然だが、それは戦後民主主義を延命させるものでしかない。しかも、その多くが搾取されている移民労働者なしには成り立たない市民社会でナショナリズムを叫ぶほど滑稽なことはない。結局、「左」に受けの良い対米従属論は市民社会に、戦後民主主義リベラル・デモクラシーに真に絶望しきれないという「絶望の否認」なのだ。ジジェク―アガンベンの言葉を借りれば、「絶望する勇気」が足りないといえる(『絶望する勇気』青土社、7月)。ジジェクは急進左派シリザを例に出して言う。「草の根の自己組織は国家の代わりにはなれない。そして問題は〔…〕いかに国家装置をつくり直すか、ということである」。
この記事の中でご紹介した本
国体論 菊と星条旗/集英社
国体論 菊と星条旗
著 者:白井 聡
出版社:集英社
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