デカダンな哀感を醸す読後感  四方田犬彦「鳥を放つ」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年8月14日 / 新聞掲載日:2018年8月10日(第3251号)

デカダンな哀感を醸す読後感 
四方田犬彦「鳥を放つ」

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先々月末から芥川賞発表まで、「美しい顔」の無断引用問題が喧しかったようだが、芥川賞選考委員・島田雅彦のバランスを考慮したコメントを見る限り、議論は一巡したらしい。何かを言い足すには時機を逸した模様。出版社同士の応酬はさておき、今回の問題で、作品自体が、「私」が嫌悪するマスコミ仕立ての感動物語―先月の豪雨災害でも変わらずその種の報道はあったと聞くが―の実例と読むことが可能になってしまったこと、そして、そのナイーヴな部分こそが、多くの評者によって絶賛の対象になっていたことで、なんだか凝った罠にまんまと嵌められたような困惑が議論を盛り上げた理由だったのかもしれない。ともかく作者には萎縮や自己検閲のない次作の発表を期待したい(あえて再び参考資料をふんだんに使ったネタで勝負して欲しい、他人事のようで申し訳ないが)。

七月発表作には、魅力を感じる作品がほとんど見当たらなかった(五誌限定の話だが)。時評を放棄する度胸はないので、目に付いたものからランダムに。例外的に心動かされた作品は、四方田犬彦「鳥を放つ」(新潮)である。一九七二年、大学に入学したばかりの瀬能せのう明生は、某セクトの木村と人違いされ、内ゲバの犠牲者となりかける。以来、瀬能は自身を不完全な片割れ(分身)と見る意識を抱えながら、文化資本の蓄積に勤しむ大学時代、出版社勤めの最中の休暇に訪れた一九八〇年のパリ、現実と妄想が混淆する一九八四年の東京、アフリカ大陸を遍歴した果ての二〇〇一年のマダガスカルへと流離していく。フランス現代思想にかぶれた世代の「人生劇場」である。そしてエピローグでは、「私たち」という匿名の一人称複数形に視点を変えて、二〇一二年の東京に帰還した瀬能の姿が語られる。正直、そのまま辺境の地で朽ちればいいのに、と思ったが、それだと作中で盛んに皮肉られているポストモダンな結末に寄りすぎるのだろう。「帰ってくる」ことによって始まりと終着との目の眩む差分を短い上映時間で表現できる映画には、「人生」の儚さを描く優れた作品が多い。作者を映画研究者と知った上での偏見かもしれないが、本作は映画的なのだ。他に手法の点では、実在の固有名を使っている場合(中上健次など)と、モデルが想定できるが名前を変えてある場合(中沢新一かな)とを虚実混淆させて、史実と偽史の二重螺旋構造にしている工夫が光る。とりわけ、四方田素子雄すねおという苗字のみ本名の存在は、作者自身の人格が半分投影された人物として虚実の媒介を担っているのだと思われるが、内容的にも、本筋に絡まない道化的第三者として、下手すれば鼻持ちならない衒学的な世界を、軽い自虐で相対化している点で効果的である。作品を通底する「わたしとはわたしの残像にすぎない」という無常観が、表向き華やかなニューアカ全盛の知的遊戯の時代が潰えていく成り行きと重なり、デカダンな哀感を醸す読後感がいい。とはいえ、内容的に読者層が限定されるのは避けられないかも。

福嶋伸洋「永遠のあとに来る最初の一日」(すばる)も、いずれ大学院へと学問の道へ進む「ぼく」が、大学時代に働いていたカフェのバイト仲間との思い出を綴る、多分にノスタルジックな一編。バイトを離れ、仲間と徐々に連絡を取り合わなくなるにつれ、「あの頃」の記憶が結晶化していく後半の描写は悪くないのだが、そこに帰着するまでのタメ(あの頃の「ぼくたちの世界」の活写)が足りない。物理的な長さだけではない。ピュアで差し障りのない「ぼくたち」の人間関係から、懐かしむに値する深みが見えないのが残念。

山田詠美「ファースト クラッシュ」(文學界)。現在五〇歳近い女性が少女時代に経験した初恋を回想する。相手は父が引き取ってきた愛人の子供という、微妙に少女マンガな設定なのが気になるが、嗜虐性を伴う甘美な刺激と恋愛感情とが未分化に生起してくる少女の無自覚な心を描いていく辺りは、さすがに手慣れた印象。この話の妙味は、その体験が同時に「私」と文学とのファーストクラッシュ(初恋)でもある点で、文学讃歌になっている工夫だろう。その意味で正当な純文学、否、純愛文学である。純文学とは、まず純愛文学であるべきだという作者の声が聞こえる、ような。

杉本裕孝「将来の夢」(文學界)。これも初恋の一形態なのかもしれないが、変な小説である。舞台はキリスト教系の小学校だろうか、女子たちがしているマリアさま(の処女懐胎)ごっこに刺激されて、赤子を生みたいという欲望を抱いた「ぼく」。思春期を迎える直前の性の多形性の一端を見せるみたいなことなのか。とはいえ最後は、まだ性自認の不安定そうな少年ぽい少女と、互いの性器に興味をもってそれを見せ合うという、いかにもありそうな〈性の目覚め〉的な場面で収束するのだから、何を書きたいのか掴みどころがない。

藤田貴大「夏毛におおわれた」(文藝)。小説としてみれば前衛的だが、こういうテクニカルな洗練を押し出してくれば逆に違和感はない。演劇関係者の小説は多いが、現代劇風の戯曲の構造を残しているという点ではどこかノスタルジックでもある。形而上絵画を観るような終末的な暗さもいい(リアルな背景や状況を描きにくい演劇は、本来的に形而上的なジャンルだと思っている)。

山下澄人「腹の犬」(文學界)。これも端から見れば実験的と形容される種類の作品。「一枚の写真から」というテーマで組まれた短編特集の中の一編。手術で腹の外に出される毛のない小さな犬は、何かの象徴というわけでもなさそうで、シンプルに〈不気味アンキャニーなもの〉である(最初、人工肛門の隠喩かとも思ったが、犬と言っているのだから犬なのだろう)。冒頭に置かれた森山大道の写真よりも、フランシス・ベーコンの絵画を文章化したようなぬめっとした味わい。うまいと思わせる数少ない小説的言語の使い手。

そして、笙野頼子「ウラミズモ奴隷選挙」(文藝)。四百枚級長編への言及を怠るわけにもいかない。TPPを受け入れ、平等と自由意志という名の差別政策によって生活環境が荒廃の一途を辿るパラレルワールドの男尊国にっほんから、女人国家として独立したウラミズモの話。この架空国家を舞台にしたサーガ(神話)の執筆は大分以前から長期に及んでいるようなので、細かな説明は省きたい。ウラミズモの語源は、恨み+出雲(神話)でいいのか、確かに報復的男性虐待の鬼畜な描写が続く。だが、読書の途中で感じたのは、怨嗟の塊というよりも、草間彌生ばりのセックス・オブセッションの表現の仕方―セックスの汚さという固定観念を過剰かつ全世界的に露呈することで精神的治癒を図る―に似ている印象で、そうしたら本当に草間の名が本文中に少し出て来たので、多少は範とするところがあるのやもしれぬ。実際、ウラミズモは警察組織が肥大したファシスト的福祉国家か全体主義国家で、ナチの少年団や文革期の紅衛兵を思わせる少女たちの思考や行動と、移民一世たちとの間にも齟齬がある。つまり、パラダイスが男尊国に対置されているのではない。日常に張り巡らされた不可視の性差別的な暴力(や国家権力)を全て過剰に具象化し、世界を包み込んでしまう精神の荒療治。作者の文体の特徴の一つである魔術的で神話的な描写―例えば、二世の平均身長は一七〇センチ超、にっほんの権力者に至っては三メートルに及ぶと描かれるのは、抑圧のなさ・・・・・の文字通りの具現といえる―は、見えない力の可視化の作業に極めて有効なのである。だから男性保護牧場のエグい姿を男性読者が自然主義的に受け止めて逆恨みするのはお門違いで、そのような魔術的なレトリックの延長の産物と捉えたいところ。何も作品に託された政治的な主張を損なおうというのではない。新自由主義を強烈に批判する方法としての魔術的なレトリックが、資本主義の原理の浸透と共に発展してきたという背景を無視するべきではないのと同じく、テクストをイデオロギカルに分断・・する狭い読み方に囚われるのは、小説という形式の保全のためにも避けたいのである。

最後に、木下古栗「オナニーサンダーバード藤沢」(文藝)。文体、特に会話の調子に既視感があると思ったら、村上春樹に似ている。本作限定の意図的なものか、それとも以前からそんな文体だったのに気付かなかったのか。これを村上作品のパロディとするなら、あれはオナニー小説だという評価をしたことになり、相当な皮肉になるが果たして。それにしても、前作に続き本作も新連載の一編目だが、季節毎に仕切り直すのは普通のことなのか。色んなことが、わけわからない。今回は、素直に面白いと思える作品は少なかった。が、たぶん良い意味での、と思いたい、読書の眩暈だけが残っている。
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