欲望の生成の反復を、繊細に描く  三宅唱「きみの鳥はうたえる」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年8月21日 / 新聞掲載日:2018年8月17日(第3252号)

欲望の生成の反復を、繊細に描く 
三宅唱「きみの鳥はうたえる」

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部屋で酒を飲んだ後、主人公の青年は佐知子が帰るのを送っていく。夜の通りは雨に濡れ、二人はビニール傘を差しながら仲睦まじげに並んで歩く。男は好んで雨に打たれ、女も傘をそらして髪を濡らす。その様子を長回しのカメラが繊細に捉える。三宅唱の『きみの鳥はうたえる』のなかでも飛び抜けて優れたショットだ。とはいえ、これで本当にいいのかという疑念も浮かぶ。映画ではしばしば男女の関係が大きく変わる瞬間に雨が降るが、この場面はそうした瞬間ではなさそうだからだ。けれども、佐知子が着る男物の緩めのTシャツを見落としてはならない。彼女はそれが主人公のものではなく、彼と一緒に暮らす静雄のものだと知らされる。この衣装劇が彼女と静雄の距離を密かに縮めるのだ。部屋で酒を飲んだのは主人公と佐知子と静雄の三人で、静雄は酔いつぶれながら、佐知子を映画に誘っていた。しかも彼女は主人公と別れた後、他に客のいないバスのなかでTシャツの匂いを嗅ぐ。主人公と佐知子の最も幸せそうに見える瞬間に、別れの第一歩はすでに踏み出されていたのだ。この雨は二人の仲を祝福するだけでなく、同時に衣装劇と協調しつつ、その関係の密やかな変容を告げてもいるのだ。

この映画にはかけがえのないショットがもうひとつある。三人がクラブに行き、佐知子がヒップホップの音楽に合わせて楽しげに踊るショットだ。ここで佐知子に扮する石橋静河がこの上なく生き生きとした表情を見せて、映画の至福の一瞬が到来したかのようである。

ここで注意したいのは、観客がこのように感じる時、ショットは感情イメージとして、すなわちパースの言う一次性として捉えられていることだ。これは物語に還元されないとされがちな映画の視聴覚的な細部が属する領域である。ただし、それはあくまで物語の一要素であり、その要約から排除されるということにすぎない。ともかく、それはイメージという記号であり、どんなに魅力的でも生々しい生の断片では決してない。一方、二次性すなわち行動イメージは、観客がそれに寄り添って物語を理解するという意味で、言わば物語の中軸をなす。だが、一次性と二次性だけでは映画の物語は完結しない。観客は三次性すなわち心的なものとされる関係イメージを見出さずにはいられない。パースが言ったように、「人間は象徴記号」であり、思考する存在である。事実、映画の冒頭で主人公は佐知子に肘をつねられ、その行為の意味を考える。モノローグにナレーションが重なる大胆な描写に驚かされるが、ここで彼は行為という記号の意味を何らかの解釈項を参照して探している、つまり記号を三次性として捉えているのだ。映画の観客も解釈項を参照せずにはいられない。映像が示す物語には多数の断裂がありそれを埋めねばならないし、そもそも台詞は記号の三次性に属しているからだ。

ところで、佐知子は映画の最後でも、主人公の肘をつねる。男は再び解釈項を参照して意味を探す。どんな意味を彼は見出すのか。いずれにせよ、それは遡及的に構成されたもので、言わば捏造されたものにすぎない。重要なのは、肘をつねる行為が二度にわたり彼の欲望を起動させたことだ。その行為の何かが欲望の原因となった。欲望の生成の反復を、映画は差異を交えつつ繊細に描いている。

今月は他に、『REVENGE』『スウィンダラーズ』『オペレーション:レッド・シー』などが面白かった。また未公開だが、ツァイ・ミンリァンの短篇『無無眠』も良かった。
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