倫敦市役所前の隔意なき御交歓|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年8月28日 / 新聞掲載日:2018年8月24日(第3253号)

倫敦市役所前の隔意なき御交歓

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写真は倫敦市役所前に於ける歓迎会の光景で、背広の御略服で御台臨あらせられ、要路の高官名士と握手の御交換に、人波の渦を捲て居せられる。右は東宮殿下で左は閑院宮殿下である。(「写真通信臨時特別増刊 東宮殿下御渡欧記念号」大正十年七月)

人、人、人の渦の中で、注目してほしいのは、中央の右寄りに写る眼鏡をかけた青年の顔だ。どこかで見たことがあるような……。

若き日の昭和天皇、このときはまだ十九歳の皇太子だった。

大正十(一九二一)年三月三日、皇太子裕仁親王は、初めての外遊に出発した。飛行機旅行などない頃なので船旅に、御召艦「香取」(戦艦)と供奉艦で旗艦「鹿島」による「遣欧艦隊」が組まれた。南回りでまずは日英同盟が結ばれていた英国を訪問。この写真はロンドン市庁前で開かれた歓迎式典、出席の名士たちが皇太子を取り巻いて、前に進めないほどの人波ができた(『写真通信臨時特別増刊 東宮殿下御渡欧記念号』大正十年七月刊)。英皇帝ジョージ五世が率先して歓迎しただけでなく、到着してからのふるまいが好感を呼んで、皇太子の人気が日ごと高くなっていたのだ。

日本では、厳重な警備が敷かれた中を粛々と歩くのが通例だから、こんな人いきれのなかに放り込まれた体験など、おそらくは初めだ。同じような光景は、三十五年後の敗戦直後に各地を訪れた「巡幸」まで、見ることはできない。貴重な一枚である。

この外遊で皇太子は「初めて人としての自由を知った」(弟淳宮=秩父宮への手紙)という解放感を味わった。この写真でも、表情が生き生きとして見える。

英皇帝は東洋の青年皇太子に立憲君主の在り方を説き、「それで自分の考え方の基礎が定まった」と天皇になって、晩年に語っている。第一次大戦の激戦地ダンケルクを訪れ「戦争とは実にひどいものだ」と語ってもいる。パリでは地下鉄に乗り、キオスクで自分で絵葉書を買い、始めたばかりのゴルフを英仏両国で楽しんだ「休日」だった。

しかし、「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿の彫刻を見つけ、「日本に帰ったらアレだね」と側近に言ったというから、帰国後に待ち受けるきびしい状況は、十分に承知していたのだ。

この外遊には、もう一つの大きな「初モノ」があった。映像メディアの随行だ。御召艦には新聞記者とカメラマンのほか、松竹キネマや日活などの「活動写真班」も同乗が許された。記録フィルムは日比谷公園と大阪で上映され、日比谷には十万人があつまったという。撮影した写真も「欧州からの便船ごとに」(『写真通信』)通信員から送られる「速報」を競っていた。

それまで、天皇と皇太子の写真は自由に撮影できず、活動写真つまりはムービー映像は禁止されていたが、外遊時にかぎって許可された。明治憲法は、天皇を「神聖不可侵」としていたからだ。帰国後は、再び検閲によって笑顔や人間的なものは不許可になる。つかのまの「解放」で、日本国民は皇太子の「素顔」を垣間見ることができたのだった。

半年後に帰国すると、皇太子はすぐに「摂政」に就任して、病床の大正天皇に代わって国政を担うが、直後に原敬首相が暗殺されて政治は混迷していく。

二年後には関東大震災が起き、結婚は延期する。二十五歳で即位した昭和天皇は、困難な時期に「船出」して、やがて敗戦という未曽有の国難を乗り越えていく。

一九七一(昭和四十六)年、昭和天皇は香淳皇后とともに欧州を歴訪し、半世紀ぶりに英国を訪問した。

そしてこの夏、平成の皇太子の長女愛子さまが英国を訪れている。どんな体験をしてきたのか、興味深いところである。
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