鏡のなかのアジア 書評|谷崎 由依(集英社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年8月25日 / 新聞掲載日:2018年8月24日(第3253号)

鏡のなかのアジア 書評
歪んだ鏡像としての、あるいはつくりかえられた地図のなかのアジア

鏡のなかのアジア
著 者:谷崎 由依
出版社:集英社
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鏡のなかのアジア(谷崎 由依)集英社
鏡のなかのアジア
谷崎 由依
集英社
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ここはいったいどこなんだろうか、そしていつの話なのか。読み手は狐につままれたような気分を味わわされる。5つの短編の舞台になっているのは、チベット、九份Jiufen(台湾)、京都、コーチン(インド)、クアラルンプール(マレーシア)といったアジア各国の都市で、実在の地名やその地を特徴づける風土や事物が描き込まれている。しかし繰り広げられる描写に、ほんの少し異物が挟み込まれている。日本語の文章の中に入り込むアルファベットに変換された地名や慣用句が、描かれる土地に無国籍の様相を帯びさせてゆく。文字は読まれて音となり、異国の地に馴染む。それは台湾でshito shito降る雨の音だったり、京都弁と聞き間違えられそうなatrociousという英単語だったりする。「音が空間をかたちづくる。音が空間をひらいて、その場所は音によってどこまでもひらかれていく」とあるように、音によって空間はどんどん境界を失い混じり合う。

そして物語の空間のなかで、人やものはどんどん移動していき、さらに混沌としてゆく。チベットの高地の僧院にはさまざまな響きを持つ土地から若者らが集まり、九份の村には熊のような男が現れ留守宅を守る女を奪い、京都の大学には地方出身者や留学生が集い、インドの街にはさまざまな国のものを置いた市場が開かれ、クアラルンプールでは異国からの花嫁がやってくる。思うに、異なるものを受け入れ混じり合うのはアジア的と言えるかもしれない。歴史的に、さまざまな文化の交流点となり、あるいは植民地として侵略を受け、戦地となり、また経済の生産拠点として、異国の人々を受け入れてきたのだから。人や文化が混じり合い、新たな言葉や価値観が生まれ、混沌は渦を巻き、物語を紡ぎ出す。時間軸はねじれてゆき、そこにさらに特殊な異物が出現したとき、物語は能動的な動きを見せる。それは僧院に忽然と現れる幼女だったり、草の根についた金だったり、真夏の鍋パーティだったり、若い継母から生まれくる前の赤ん坊だったり、白い蝙蝠だったりするかもしれないし、それらの形をとったまったく虚構の幻想かもしれない。そしていつのまにか紛れ込んだ異物であるはずのでたらめが、物語の本筋である真実に取ってかわって語られているのかもしれない。そして嘘と真実のどっちが美しいか判断がつかないほどの、混沌とした美しい世界をつくりあげてゆく。

語りが区切られることなく続くうちに、その場所の存在の事実、アイデンティティすら危うくなってくる。語られる場は鏡の向こうに見る像のような不思議な距離感と歪みを生じる。アジアは上から読んでも下から読んでも、ア、ジ、ア。音によって対象をなした言葉は、だが文字の上では完璧な鏡像にはなりえず、歪みを生じさせたまま、鏡の中の物語を生き始める。

5つの物語は響き合い、新しいアジアをかたちづくる。そのうちにアジアの地図がつくりかえられているのに気づく。中心となる「大陸」なる存在があり、そこから放射状に点在する形で、これらの物語が生まれ、語られ、さらに混沌の様相を帯びてゆく。大陸については、厳然とそこに存在していること、そこから舞台の各地に影響を与えていることはほのめかされているが、多くは語られない。このつくりかえられた地図の意味を探りながら読み進めていくのも一興だろう。

混沌のなかで幻想とこれらの物語が(その事実すらホラかもしれないが)「国際友誼」の響きを名に持つ作家から紡ぎ出されたこともまた興味深い。
この記事の中でご紹介した本
鏡のなかのアジア/集英社
鏡のなかのアジア
著 者:谷崎 由依
出版社:集英社
以下のオンライン書店でご購入できます
「鏡のなかのアジア」出版社のホームページはこちら
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