震災は革命か  栗原康のアナキズムと関東大震災|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年9月10日 / 新聞掲載日:2018年9月7日(第3255号)

震災は革命か 
栗原康のアナキズムと関東大震災

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震災は革命だ、というのは栗原康だ。
「革命というのはなにも民衆が積極的にひきおこしたものばかりではない。ぜんぜんのぞんでいなくても不可避的におこってしまうことだってある。たとえば、いちばんわかりやすい例が、二〇一一年三月一一日の東日本大震災だ」(『何ものにも縛られないための政治学』KADOKAWA、7月)

栗原が言っているのは、震災以降、日本にもデモという運動文化が定着した、といったことではない。地震や津波による破壊、原発事故への政府の対応の無能さ、計画停電による都市機能の麻痺などを体験し、人々が「政府もインフラもいらないんだ」と認識できたことを「革命」と呼んでいるのだ。

栗原の主張は一見暴論のように思えるが、アナキストとしては筋が通っている。アナキズムの聖典であるクロポトキン『相互扶助論』によれば、人間をはじめあらゆる生物は相互扶助の本能を持っている。赤ん坊が井戸に落ちそうになったとき、ひとはなんら見返りを求めることなく、助けようとする。しかし、国家や市場はこの本能を否定し、人々を競争や消費に駆り立てる。ならば、国家や市場を機能停止に追い込めば、自然と相互扶助は回復する。人々の相互扶助を掲げるアナキズムの穏健な主張がテロリズムや暴動につながるのはこの理由による。栗原にとってみれば、震災は相互扶助を回復させ、無支配アナーキーを顕現させる革命だったというわけだ。

すでにこの連載でも指摘したが、栗原のロジックは震災後に脚光を浴びたレベッカ・ソルニット『災害ユートピア』と同じだ。ソルニットもクロポトキン『相互扶助論』に依拠しながら、災害によってインフラや国家が一時的に機能停止したとき、人間はパニックを起こすことなく、相互扶助的なユートピアをつくりだすと主張したのだった。だから、災害にユートピアを見出したソルニットを肯定するならば、東日本大震災を革命と呼ぶアナキズムもまた認めなければならない。

栗原の論理はアナキストとして一貫している。では、こう問うことも許されるだろうか。大杉栄や伊藤野枝ら多数のアナキストが殺害された関東大震災ははたして革命だったのか、と。1920年代初頭、労働運動の方針をめぐって「アナ・ボル論争」と呼ばれるマルクス主義とアナキズムの思想的対立があった。簡単にまとめれば、マルクス主義者の山川均が中央集権的な組織と運動の目的意識性を主張したのに対し、大杉は独立した組織による自由連合と運動の自然成長性を主張したといえる。通説によれば、理論的主柱だった大杉栄が関東大震災の混乱のさなかに虐殺されたことでアナキズム陣営は力を失い、その結果日本ではマルクス主義の影響が強まったとされる。しかし、関東大震災がアナキズムの思想的な敗北だったとしたらどうだろうか。

栗原のアナキズム思想で興味深いのは、米騒動を高く評価していることだ。米価格の高騰をきっかけに富山県から全国に波及したこの暴動にアナキズムが体現されているという。国家の支配を否定するアナキズムは運動組織における支配関係も否定し、民衆の自発性を重視する。しかし、栗原によれば、米騒動などの暴動にあるのは「その自発性が暴走しはじめる」ことだという(同前)。その一例として栗原があげるのは、山口県の宇部炭鉱の鉱夫たちが米屋だけでなく、雑貨店や呉服店からも物品を略奪し、最後には奪った食料を川に放り込んでしまったというエピソードだ。「アナキズムにもしばられるな。自発性だけで暴走しようぜ」と、相互扶助さえも踏み越えてしまう暴力を肯定する(同前)。これが栗原の強調する「あばれる力」なのだ。

日本のアナキズムの主柱であった大杉栄は、米騒動から「暴力のイメージをかんぜんにつかんだ」とされる(『現代暴力論』、2015年)。運動はあくまでも自然成長的であるべきだと考えていた大杉は、みずからが行動することで、民衆の自発性を共鳴させようとした。米騒動における大杉を、栗原は次のように紹介する。
「大杉はテンションがあがって、主婦をみつけてはあっちでコメがやすくかえますよ、こっちでもコメがやすくかえますよと、ひたすら騒動をけしかけていたらしい。そのあと車でのりつけて新聞各社をまわり、「釜ヶ崎でも大暴動がおこっている」とデマをながし、記事にさせたりした。共振作用をひきおこすというか、自由をもとめるひとの心に火をはなとうとしたのである」(同前)

栗原の一連の著作は、暴力へとけしかける煽動の書というわけだ。しかし、2008年に出版された『G8 サミット体制とはなにか』では、2000年代初頭の反グローバリゼーション運動におけるブラックブロックといったアナキストを「非暴力」として評価している。ブラックブロックの破壊行為はあくまでも多国籍企業に向けられたものであり、「人体に危害を加えないという点では、他の参加者と同じく「非暴力」で統一されていた」。警察への投石についても「警察のふるう暴力に対しての怒りであり、そんな暴力には従わないという意志表示のための象徴行動である」。したがって、暴動は「政府やマスメディアが報道するような暴力的なものでは決してなく、むしろ数万の人びとがいっせいに、武装した警察の圧力や挑発に抗議し、また警察権力に守られなければ開催すらできないG8サミットの本質にたいして、怒りをあらわにした異議申し立ての行動なのだ」と(前掲書)。だが、『永遠のアナキズム』(2013)以降、本格的に執筆活動をはじめてからは、暴力を留保なしに肯定するようになる。この間に、脱原発運動や安保法制反対運動といった民衆の自発性を言挙げつつ、そのじつ自発性を統制するような運動が表面化したためだろう。「おまわりさん、ありがとう」という市民運動への鬱憤を栗原のアナキズムは表現している。

災害ユートピアは東日本大震災後脚光を浴びたが、それが関東大震災時に出現したという言説はなかった。震災直後の混乱に乗じて、井戸に毒物を投げ込むテロや暴動を朝鮮人が起こしている。そんなデマを信じた自警団が、多数の朝鮮人や中国人を虐殺したからにほかならない。この虐殺には三一独立運動などに惹起された朝鮮人に対する恐怖感があったとされる。

ところで、この自警団の結成には米騒動が大きくかかわっている。ロシア革命の勃発や米騒動といった民間騒擾を受けて警察当局は「警察の民衆化と民衆の警察化」と呼ばれる政策をとった(大日方純夫『警察の社会史』)。相談窓口を設置し、啓発活動をおこなうことで警察を身近な組織にするいっぽうで、民衆には治安維持を目的とした消防団、青年団、在郷軍人会を組織させていったのだ。震災直後の自警団の結成には、このような歴史的背景があった。

東京オリンピックのボランティア問題で明らかなように、権力が民衆の自発性や相互扶助を利用することはしばしばある。関東大震災時の虐殺とはまさにアナキズムが逆用された事態ではないか。「国家やインフラ」も頼りにならないと、民衆は竹やりを手にとって、「相互扶助」的な組織である自警団を「自発的」に結成し、存在しない朝鮮人の「暴動」を制圧するために「あばれる力」を取り戻したわけだ。そして、警察当局や新聞社がデマを流布し、さらなる虐殺をけしかけたことは、米騒動における大杉栄のふるまいそのままだ。そもそも虐殺は「自発性の暴走」ではないか。相互扶助の精神が高まれば高まるほど、その外に置かれたマイノリティへの排除も強くなる。「あばれる力」は右にも左にもぶれやすい。いくら栗原が暴力を反国家・反警察に設定しようとも、それはマイノリティにも向けられるのだ。

栗原だけでなく『アナキズム入門』の森元斎も反グローバリゼーション運動に影響を受けたようだ。ソ連が崩壊し、マルクス主義が消えた冷戦以後において、アナキズムが運動の理論的根拠になるのは当然の帰結だった。しかし、時代が一周回ってトランプ大統領という反グロ政権がレイシズムを掲げて誕生したことを考えれば、民衆の「自発性の暴走」ばかりを称えられないのは、もはやあきらかだ。アナ・ボル論争のとき、大杉栄は「理論」ではなく、「気分」が重要だと述べた。しかし、いま必要なのは、暴力の無意味な暴発を批判する「理論」だろう。
この記事の中でご紹介した本
何ものにも縛られないための政治学 権力の脱構成/KADOKAWA
何ものにも縛られないための政治学 権力の脱構成
著 者:栗原 康
出版社:KADOKAWA
以下のオンライン書店でご購入できます
現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す/KADOKAWA
現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す
著 者:栗原 康
出版社:KADOKAWA
以下のオンライン書店でご購入できます
「現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す」出版社のホームページはこちら
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