改組新第3回日展開催に寄せて①|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年10月28日 / 新聞掲載日:2016年10月28日(第3162号)

改組新第3回日展開催に寄せて①

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二〇一六年一〇月二八日から一二月四日まで国立新美術館で「改組新第三回日展」が開催される。日展は日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書など約三〇〇〇点の新作・入選作が全国から集まり一堂に展示される。本紙では「改組新第三回日展開催に寄せて」と題し全四回で理事長はじめ日展作家のインタビューを掲載する。文責は美術ライターの松井文恵氏にお願いした。 (編集部)
改組新第3回日展会期:10月28日(金)~12月4日(日)
時間:10時~18時(入場は17時30分まで)
場所:国立新美術館(港区六本木7-22-2)
入場料:一般1200円/定休日:火曜日 
※11月12日(土)は「日展の日」として入場無料


人形作家・奥田小由女氏インタビュー


自分だけの人形をめざして

日本独自の胡粉を使った白い肌の創作人形で、常に注目を集める人形作家奥田小由女氏。二〇一四年より、日展の一万人の作家を率いる理事長を務め、毎年、震災復興への思いを作品に託し発表している。


大阪に生まれた奥田さんは、幼少のころ父親を亡くし母親の郷里広島で育った。家には上村松園の「序の舞」の大きな複製があり、「すごく魅力的で衝撃的でこんな素晴らしいものを女性が描くのかと思って、それが一番最初の絵に対する憧れのようなものでした」と語っている。

広島の私立日彰館高校では美術部や演劇部などに所属し活発な学生時代を送った。「すばらしい先生がたくさんいらして劇団の公演や展覧会などがある度に、東京へ連れていってくれました」ブールデルの彫刻を見に東京へ行ったとき、「創作人形」を見る機会があった。そこで彫刻とは違う自分の思いを形に作る人形という世界があることを初めて知った。「こんな世界があるのかと雷が落ちてきたようになって、どうしてもやってみたい」と思い、上京。紅実会人形研究所の林俊郎氏に師事することになった。しかし始めてみると、心の中で描いていた人形とは何か違っていた。

そこで自分だけのものを探し当てるためにさまざまな旅をした。「当時ソ連廻りで二十時間かけてフランスやイタリアなどへ行って、それが非常に刺激になりました。美術館だけでなく、皆が行かないような所でもいろいろ訪ね歩きました」

そうして人形の制作に取り組み、一生懸命お金を貯めてはまたヨーロッパに行った。当時は高度成長期、人形は好評でよく売れたという。「自分が目標とするものがみつかるまでは頑張りたいと思いました。まず世田谷の奥沢に小さなアトリエを持ち、それから日展を目指しました」

奥田小由女《三陸の海への祈り》2016年改組新第3回日展出品作品
思い描く造形を作るために彫刻も絵も勉強した。彫刻の先生のところでクロッキーをさせてもらい、木彫の方法もずいぶん教わった。だが胡粉を膠と合わせて練り溶きおろす方法だけは秘伝ということでなかなか教えてもらえず、実践を繰り返した。
「白い作品を作っていた時代は桐を彫って造形していました。日本の胡粉は美しく品よく最高のものですが、もろくて、全体に使うとひび割れてどうしようもないものでした」

しかし、なんとか日本古来の素材で真っ白な世界に仕上げてみたいと、失敗を繰り返しながら挑戦し、仕上げることができたのだ。

日展の初出品は落選したが、二度目からは毎回入選を続け、現在まで一度も休む事なく出品を続けている。入選二回目の作品「歓」は昭和女子大学学長人見楠郎先生の買い上げとなり、後に同大学の校庭にモニュメントとして設置された。

また五年目のころ、山崎覚太郎先生、杉山寧先生、河北倫明氏が日展作品を解説するNHKの番組があった。その企画で特選の次点の若い作家が出演することになり、彫刻、日本画、工芸美術の三人の中に奥田さんが選ばれた。
「緊張しました。山崎先生が『華かなのは一科の日本画。工芸美術は元々すばらしいのに四番目で残念だ。若いお前たちが全科の人に理解され、外の人にも認めてもらえるように目指してもらわなくては困る』と強くおっしゃったのです。各先生がよくしてくださり、時には厳しい指導をしていただきました」

一九七二年には「或るページ」で特選を受賞。「たまたま窓辺に置いていた本のページがめくれてできたアールの感じが素敵でした。人生の中にはいろんなページがある。その思いが立体になった作品です」この作品は満票で特選となり、翌年から日展に類似作品が出るほどの影響を与えた。

二年後に「風」が再び特選となり、産経新聞社の鹿内信隆社長が彫刻の森美術館にと買い上げた。

しばらく白を基調とした抽象的な造形表現を試みていたが、奥田元宋氏と結婚する前後からは色彩豊かな女性像の作品が中心となる。

色の世界では、水に溶ける水干絵具を一色ずつ作っていった。また胡粉は元々貝の粉なので何回も塗り重ねると巻のいい真珠のような状態になり、光沢が肌から出てくる。奥田さんの美しい人形の肌の秘密である。
奥田小由女《或るページ》1972年第4回日展出品作品

伝統と革新の日展

こうして日展で作家としてめざましい活躍を続けてこられたが、日展の工芸美術の特徴をこう語る。「伝統工芸では技術などを伝承しなければいけないのですが、日展は一代でもいいのです。個性や持ち味、人柄が作品に出ますし、日展は歴史が長く伝統的なものがあるのですが、革新的なところもあって、それが魅力だと思います」

また大作にも挑んでいる。
「普通人形は小さいイメージで大きなレリーフを作る方はほとんどいないのですが、広島県女性総合センターができる時に初めて大作を作りました。そういうことが発想次第で自由に許されるのも日展です」。長さ十三メートル、縦二メートルの壁面に一緒に組み込まれていくもので、人形というよりも、時代を超えていく芸術作品である。

今日、一万人を越える作家を理事長として牽引する奥田さん。
「日展は美を作って発表し、お互いに切磋琢磨するところです。大きな舞台に自分をさらすのは素晴らしいことだと思うのです。みな必死の思いで一番良いものを出したいと頑張っています。誰でもスランプなどありますが続けることが大事です」

そして奥田さんが強く望むのは、作家が思い切り仕事ができるような環境を作ることだ。
「一人ひとりが純粋に仕事をして、いかにすばらしいものを制作し発表できるかなのです。日展はまったく体質が違う五科が集まっているのも珍しいことです。外国の方も含め少しでも多くの人に日展作家の作品を見ていただきたい。そうして作家全体に元気が出るとよいと思っています」


日本画家・鈴木竹柏氏インタビュー

葉山の高台にアトリエを構え、毎朝五時から絵筆を握る。百寿の展覧会へ向けて常に新鮮な気持ちで描き続けるという鈴木竹柏氏の画業の軌跡を伺った。
中村岳陵氏の内弟子になった修業時代

「この緑のきれいな作品にとりつかれてしまったんです」鈴木竹柏さんが窓の外に目を向ける。一帯は空が見えないくらい緑、薄緑、黄緑。美しい色彩の奏でるハーモニーを生み出す鈴木さんの日本画の世界が拡がっていた。
三浦半島西部に位置する葉山は海岸付近を除いては丘陵地が多い。急な坂道を登り切った高台の場所に、緑に囲まれたご自宅とアトリエがある。

隣町の逗子の山の中に生まれ育ったという鈴木さんの父は逗子の助役を務め、たどれば祖先は平家の落人であったという。八人兄弟の末っ子として生を受けた。海と山のあるこの土地がとても気に入っていてずっと動くことはなかったそうである。小学校五年の時に水彩画で描いた矢車草の絵を先生に褒められた。地元の逗子開成中学を卒業後、私立の美術学校に行こうと思っていたところに大きな転機が訪れた。

一番上の兄が、その後師となる日本画の大家中村岳陵さんの家を建てた大工さんと知り合いだったというご縁から、中村先生にご指導いただくことになったのだ。結果、十二年間その家に住み込むことになる。
「内弟子というのはたいへんで、人には勧められない。家の中で毎日絵を描いているわけではなくて、雑用をするんです」
鈴木氏のアトリエへとつづく坂道の風景

私立中学を出てすぐの、十九歳のときである。それまで祖母からもかわいがられ、伸び伸び過ごしていたが、師の家に住み込みで、家にいたらすることがなかったかもしれないさまざまな仕事をした。食糧事情も悪く、栄養失調から脚気になって足が上がらなくなってしまったが、そのため、徴兵検査で丙と判断され、軍隊に行かなくてよかった。今となっては良かったのである。

しかし、先生は教えてくれるということはなかった。だから自ら考えて学ぶ以外なかった。外に出かけることもままならず、上野の展覧会を見に行っても寄り道せずにすぐ帰ってくるよう厳しく言われた。世の中のことがわからないまま十二年が過ぎた。家に帰りたくても帰ることができなかった。写生できるのは裏庭などの狭い範囲。どんなものにも美を見いだして描いていた。
「制限があるなかでも裏庭の畑の植物を描いた二十代の作品は今見てもとても良かったと思います」

今とは全く違うたいへんな修業時代、厳しい師弟関係に辞めていく人もいたが、努力して何を描くのか自分で考えて行うことで地力がついた。いま若い人が手取足取り教えてもらっていたのでは力がつかないのではないかと疑問を投げかける。

終戦の頃は、結核になり横須賀の市立病院に入院していた。空襲があり、落ちた爆弾が不発で済んだという危機一髪の体験もあったという。
鈴木竹柏《野》1965年第8回日展出品作品

戦後、師の中村さんが院展から日展へと移ったことを受けて、鈴木さんも院展から日展へと移ることになる。終戦から二、三年たって描き始めた。院展は落ちたり入ったりしていたが、日展では落ちることなく順調にいった。四、五回出して一回目に特選を受賞した時は十人が選ばれ、二回目の時はわずか五人であった。しかも関西はなく、東京だけで五人が選ばれたのである。「その中に選ばれたので、それで元気が出ました」本当に嬉しいできごとで二度目の特選の作品がとても印象に残っているという。
「今考えると日展に移って良かったです。五科あるので、いろんな科を見たり、工芸や洋画など好きなところに行ける。作家の交流もできました」
百寿展へ向けて。緑の追求と水墨画への挑戦

鈴木竹柏《陽光》2016年改組新第3回日展出品作品
どのようにして画風をつくってこられたのだろうか。「勉強していくうちに自然に個性というものができてきます。私の場合、最初はどうしても中村先生の画風に似ていましたが、そのうちに自分の個性が出てきました」しかし、個性は出ない人もいる。厳しいが、才能のある人だけが不思議に伸びていく世界だと語る。「若い人を育てることは大事なことです。才能のある人が光っていきます。そして努力することですね。昔も今も同じです」長年、日展のトップとしてさまざまな作品をご覧になっての言葉である。
「自然を見たり、古画の写真を見て勉強します。中国の絵や日本の古画の名画を見て参考にします。ただ、それを感じる人と感じない人がいますからね。西洋のものも色の具合を見たりします」

絵を描く上で大切にされていることを尋ねると、「百歳に近くなって、仕事が古くさくなっては困ります。始終新鮮な気持ちを持たないと。これは大事なことです。絵も年を取ってきては困りますからね。今度百寿展というのをやるんです。〓島屋で小さいのから三十点くらい出す予定です」

激動の時代を元来の我慢強さと豊かな才能と努力によってくぐり抜け、また、逗子の山の中を歩き、自然豊かな中で生きてきたことすべてが良かったと振り返る。そして「絵が描けるから元気でいられます。これからは、緑の追求と、水墨画を描いてみたいと思っています。水墨画は難しいですからね。勉強しないと」と意欲的である。毎日絵を描く。朝は五時に起きるとすぐに制作にかかり、七時まで集中して描いている。

日展の制作は、年明けから作品について構想を練り、六、七月には何を描くかを決めて八、九月に制作するという。「今年は緑のちょっと濃い作品を出品すると思います。こういう所にいると緑がきれいなもんですから、どうしてもこの色にひかれます。高台ですから、ここで描けるのは本当に幸せだと思っています」
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