異境の文学 書評|金子 遊(アーツアンドクラフツ)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年10月28日 / 新聞掲載日:2016年10月28日(第3162号)

異境の文学 書評
「私」的批評の可能性 「私」の有り様にどこまでも寄り添う姿勢

異境の文学
出版社:アーツアンドクラフツ
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それぞれ三つの論考を含む「Ⅰ異境の日本語文学」「Ⅱ私小説のローカリティ」の二つの部分からなる本書の、「Ⅰ」が、永井荷風と遠藤周作のリヨン、中島敦のパラオ、江藤淳のアメリカであるのだから、これは、いわゆるポスト・コロニアリズム、あるいはカルチュラル・スタディーズの研究書と思われるかもしれない。『異境の文学』という題名や著者の第一著作である『辺境のフォークロア』の副題も「ポスト・コロニアル時代の自然の思考」というのだから、そうした判断は強ち間違いではなかろう。しかし、種々の示唆に富んだこの書はその手のアカデミックな書なのだろうか。そうではあるまい。

金子は最初の論考において、四〇年という歳月を隔ててリヨンのローヌ河を眺める永井荷風と遠藤周作の二人は、憧れの地であるフランスにありつつも、「他者としてのフランス人が持つ文学的主題を自分のなかに見だすことができないというジレンマ」に陥ったと指摘する。通常は、その痛みから目を逸らし研究や創作に勤しむことになるのだが、荷風や遠藤周作はこの蹉跌を作家としての出発点に据えて創作へと向かったと語る。

江藤淳を論じる三つ目の論考は、こうした西洋での蹉跌体験を経た者が、日本に回帰した際にどのような問題に直面するかを描く。金子は、江藤が「日本の『私』は自分が日本人であり、日本社会に属するという事実に居心地の悪さを感じている」と指摘する。欧米のキャッチアップを目指す日本の社会からその優等生として欧米の地を訪れたながらも、欧米の社会に「違和」を感じた者は、日本でも「日本になじめない」。なぜなら、その日本自体がすでに欧米化されてしまっており、彼らの眼前にあるのは「廃墟のような日本」でしかないからだ。

これは、夏目漱石が「現代日本の開化」で指摘した、日本近代化の外発性に由来する問題とも言える。金子が荷風や遠藤周作、江藤淳の姿を通して「Ⅰ」で描いたのは、こうした日本近代の宿痾に真摯に向き合った知識人の姿だ。しかし注意すべきは、金子がこうした人々の生き様の描写を通じて目指したものが、一種の知識人論として一般化することでなく、この病に誠実に向き合おうとする「私」のあり様にあったことだ。

一見、「Ⅰ」と山川方夫、川崎長太郎、藤枝静夫といった私小説作家を扱った「Ⅱ」の間には接点がないように見える。しかし両者を結ぶ糸は、この「私」にある。それは川崎長太郎を扱った章での「わたしも文学作品に惚れこむと、その書き手に所縁のある土地を旅したくなる。作品のなかで触れた空気や風景を直接目で確かめ、より奥深い場所へと近づきたくなる」という、作家にあたう限り寄り添おうとする表白に示されている。

作家や評論家の「私」の有り様にどこまでも寄り添おうとする姿勢は、科学を指向する人文研究のものではない。その点でこの書は優れた文芸批評の書である。しかしまた、作家に寄り添おうとする時、批評の批評性と齟齬はないか。たとえば、坂口安吾が「通俗作家」として批判した「観察者」荷風の姿勢について、金子自身どのような批評的立場にあるのかこの書では不分明だ。こうした「私」的批評が今後どのような果実をもたらすのか、はたまた暗礁に乗り上げるのか。この俊英の今後に注視する必要があろう。
この記事の中でご紹介した本
異境の文学/アーツアンドクラフツ
異境の文学
著 者:金子 遊
出版社:アーツアンドクラフツ
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