タフだが面白いものを/『シネマ』が複雑である意味 福尾 匠 著 『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年10月2日 / 新聞掲載日:2018年9月28日(第3258号)

タフだが面白いものを/『シネマ』が複雑である意味
福尾 匠 著 『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』

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週刊読書人。すごい名前だ。

僕は一八歳まで岡山の片田舎で過ごしたが、そこで「読書人」であるのはどちらかというと大変なことだった。図書館へ行くところを友人にからかわれたこともある。もしかしたら、なぜそんなことをからかうのかと不思議がるひともいるのかもしれない。強制されたわけでもなく好きこのんで本を読むことが「普通じゃない」ような環境の雰囲気は、経験したことがないとイメージしにくいかもしれない。

そのことでとくに強い疎外感を覚えたりいじめられたりということはなかったし、僕はわりかし楽しくやっていたが、本を読まないひとがいる、むしろそういうひとのほうが圧倒的に多いのだという刷り込みは、自分で本を書くようになったいまでも消えていない。

国立大学なんかを出て、本なんかを書いている僕を、「非読書人」である地元の友人たちは、いったいどう思っているのだろうか。僕は彼らに、「べつの世界」に行ったと思われてしまうのだろうか。あるいはいつかのようにまた、気軽にからかってくれるのだろうか。こういう「書き言葉」を連ねること自体に、ときおり恥ずかしさを感じてしまう。
七月に出した初めての本の冒頭に僕は、本書がジル・ドゥルーズの『シネマ』という本の入門的な解説書であり、本書を読むために哲学の知識も映画の知識も不要であるということを書いた。しかしこれは、「誰でも読める」ということを、とうぜん意味しない。僕は明確に本書を読むためのハードルを意識していた。

それはとても具体的なものだ。自分とは生きた国も時代もちがうひとの書いた長編小説を読み通すことができること。これは本書を読むうえでのハードルであると同時に、僕が本書を書くときの目標でもあった。ドストエフスキーやゾラの、やたら登場人物が多いが、最後まで読むとそれなりのご褒美はちゃんと用意されている一九世紀の小説とおなじくらい、タフだが面白いものを書かなければならない。

『眼がスクリーンになるとき』に普通の解説書とちがうところがあるとすれば、冒頭と終盤で情報の密度がまったく変わっていることだろう。冒頭は、「ゼロから読む」という副題にできうる限り忠実に、哲学の知識がまったくない読者を想定して始まる。しかし議論が進むと、「運動」や「イメージ」という概念をドゥルーズ(とベルクソン)が、どのような意味で使っていたかがわかり、そうしてひとつずつ、将棋の手持ちの駒が増えるように説明なしで使える概念が増える。そうすると今度は概念どうしのネットワークが見えてくる。紙面はしだいに熟語や註の多い、堅い「哲学書」に、だんだん類似していく。

僕は『シネマ』がもつ複雑さを必要以上に単純化することは避けたいと思っていた。だからシンプルな議論からはじめて、一歩ずつ解きほぐしていくことで、『シネマ』が複雑であることの意味、そして複雑だからといって理解不能であるわけではないということを、読者に経験させるということがしたかった。ひとことで言えば、難しい本が読めるという喜びを、「ほんとは単純なんですよ」なんていう嘘をつかずに伝えたかったのだ。

僕の本に「喜び」が綴じ込まれている以上、本書がいかに閉じたものであってもそれは排他的であることを決して意味しないはずだ。しかしあらゆる喜びはつねにからかわれる可能性に晒されてもいる。僕はその両方を併せて肯定したい。
この記事の中でご紹介した本
眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』/フィルムアート社
眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』
著 者:福尾 匠
出版社:フィルムアート社
以下のオンライン書店でご購入できます
「眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』」出版社のホームページはこちら
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