水の匂いがするようだ 井伏鱒二のほうへ 書評|野崎 歓(集英社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年9月29日 / 新聞掲載日:2018年9月28日(第3258号)

水の匂いがするようだ 井伏鱒二のほうへ 書評
井伏論としてまぎれもない好著 
最近の研究のなかでも力強い一冊

水の匂いがするようだ 井伏鱒二のほうへ
著 者:野崎 歓
出版社:集英社
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奇妙なタイトルに思えるかもしれない。「水の匂がするようだ」とは『黒い雨』にある一文である(原文は「匂」と漢字一字になっていた)。終戦の詔勅が放送されたとき、広島で被爆した主人公閑間重松は天皇の聞きとりにくい言葉をよそに用水溝のきれいな流れをたどる。無数の鰻の子の大群が水のなかをのぼっていく様子を見ながら、重松はそうつぶやくのである。

果たしてこの井伏鱒二論もまた、この言葉のいわれを最後に置いて、そのゴールに向けて書かれた。井伏論としてまぎれもない好著である。冒頭は、井伏がくりかえし書き続けた「釣り」の話から始まる。井伏にとって「釣り」とは何だったか。「山椒魚」を手始めに、親友青木南八の追悼をモチーフにした傑作「鯉」などの初期短篇のときから、井伏は一貫して水、川、魚を登場させた。やがて、それは『さざなみ軍記』や『ジョン万次郎漂流記』へと流れ、海を漂い、国境をいつのまにかまたいで超えていったものたちへの関心へとつながった。

災厄や人生の不条理、暴力にあふれた戦争の現実に対して、魚は屈託した心をやわらげ、自らを励ました。戦時下において、それは「井伏的な抵抗のエンブレム」とまで結晶した。魚は個体でありながら群としてふるまう習性をもち、水の流れによってその進みゆきを変化させる。その自由さと柔軟性は井伏の言葉についての感覚とも結びついているという。著者がそこで注目するのが翻訳者としての井伏である。なかでもヒュー・ロフティングの『ドリトル先生』シリーズである。動物の言葉を話すドリトル先生、その先生の言葉を翻訳する井伏、『厄除け詩集』もさることながら、「外から来る異質で多様な言葉の作用をやどし結晶させる場所」となることを通して「そのような開かれた「体」のありようをめざすことで井伏は唯一無二の文章の紡ぎ手」となろうとしたと論じる。

翻訳論はいまや井伏を語る際には欠かせないキイコンセプトであるが、さらにそこに多くの素人たちの日記や書簡、資料などをもとに、書き換え、書き加えをへて新たな言葉を汲み上げてきたことの意味が検証される。言葉が言葉を生み出すこと、そしてその新たな言葉がたぐりよせられ、二次創作にとどまらない、小説的世界の再提示がなされる経緯が説かれている。戦前から戦中、戦後に至る言葉のインフレーションのなかで、井伏ほど、地域の言葉、性差や年齢、階層、職種によって異なる言葉を書き分け、その交差によるいたわりや衝突、すれ違いや反照などを書いた作家はいない。

個別の各論では、「朽助のいる谷間」や「谷間」など初期短篇に出てくる僻地の農村などの設定がズーデルマン『父の罪』翻訳作業の反映だという従来の指摘に対して、むしろ差異を見出し、「異言語接触のロマンス」を付加することで一変していくところに井伏的な翻訳の成功を見る。『さざなみ軍記』については、プレテクストを捏造し、原本と翻訳の関係そのものを虚構化する井伏を浮き彫りにしている。徴用作家のときの小説にしても、検閲との微妙なつばぜり合いを想定しつつ、「或る少女の戦争日記」という、これまであまり取り上げられてこなかった作品に注目し、侵略する側とされる側とのあいだに展開された「切り返しショット」の鮮やかさを読みとっている。こうした論述の最後に『黒い雨』の一文が来たとき、思わずぞくりとするはずだ。

井伏鱒二についての研究は最近、若い近代文学研究者のなかでも静かに盛り上がりを見せているが、なかでも力強い一冊が出たと言えるだろう。
この記事の中でご紹介した本
水の匂いがするようだ 井伏鱒二のほうへ/集英社
水の匂いがするようだ 井伏鱒二のほうへ
著 者:野崎 歓
出版社:集英社
以下のオンライン書店でご購入できます
「水の匂いがするようだ 井伏鱒二のほうへ」出版社のホームページはこちら
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