鼎談=成相肇×細谷修平×平沢剛/インタビュー=ヴラスタ・チハーコヴァー <「1968年」の芸術表現とポリティクス> 千葉市美術館「1968年 激動の時代の芸術」展開催を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年10月5日 / 新聞掲載日:2018年10月5日(第3259号)

鼎談=成相肇×細谷修平×平沢剛/インタビュー=ヴラスタ・チハーコヴァー
<「1968年」の芸術表現とポリティクス>
千葉市美術館「1968年 激動の時代の芸術」展開催を機に

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1968年から半世紀を経た今年、小紙では「1968年関連」の企画をいくつか特集してきたが、今回は千葉市美術館で開催中の「1968年激動の時代の芸術」展を機に当時の芸術表現に注目する。芸術家たちは当時の空気の中でどのように表現活動をしてきたのか。
またその行為は現在の視点からはどのように捉えられるのか。
1960年代を直接には経験していない成相肇、細谷修平、平沢剛の三氏に考察してもらった。
また1960年代に留学生として来日し、日本の学生運動と「プラハの春」を経験したチェコ出身の美術批評家のヴラスタ・チハーコヴァー氏にインタビューを行った。 (編集部)


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第1回
スペクタクルとして消費する状況

成相 肇氏
成相 
 「1968年」と言うと「反体制」「激動」、そして「熱い」「激しい」といった形容詞と連動したヒロイズムとして語られがちで、その語り口が固着してしまっている印象があります。また制度論や感情論に流れてしまうきらいがあって、非常に多くの言葉が費やされているにも関わらず、具体的な表現論として、何が為され、何が生じ、どこに接続しているのかという分析が実際には不十分ではないかと感じています。1968年パリ5月革命の引き金になったのはシチュアシオニスト・インターナショナルのギー・ドゥボールによるスペクタクル批判ですが、まさに1968年をスペクタクルとして消費している状況があるのではないか。細谷さんはご自身の活動を通してどうお考えになっていますか。
細谷 
 ヒロイズムといったマクロな視点での歴史的な位置づけで「1968」を消費してしまう危惧はあります。私自身はそれよりも1968年前後の流れに無数の人々の動きがあり、その背景を丁寧に追っていくことが重要ではないかと思っています。それで作家や関係者への聞き取りをここ数年しています。元々は人がどのように美術家になっていくのか、或いは個々人が生涯をかけて芸術をどのように獲得していくのかといった奮闘のプロセスに関心がありました。それを知るためには時代状況や個々人の生育環境など、背景を調べる必要があって、それが故に聞き取りをしています。

もちろん作家が作品を残したりステイトメントを発していたりするのですが、そうした特定のものを見るだけでは作家を表層的にしか捉えられない。その思想や具体的な作家活動の中で考え方が練られていく過程を見るためには、研究者と作家に思想的、政治的な共有意識があった上で、中長期的な聞き取りや資料調査といった共同作業を継続していく必要がある。お前しつこいな、と言われることもあるのですが、研究というよりも運動だと思って私自身は行なっています。
成相 
 オーラル・ヒストリーや作家自身が保存されている資料を掘り出す作業ですね。これまで調査されたのはどういった方々ですか。
細谷 修平氏
細谷 
 自身の研究と並行して、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴのメンバーとしても聞き取りを続けてきました。特に私は作品が残らない一回性のパフォーマンスに興味があるので、ゼロ次元や糸井貫二など儀式派と呼ばれる作家ですね。

作品があるとどうしても市場優先で取り上げられ、既存の美術史の中でそれだけが残る。作品が残っていない人はたくさんいます。美術史に登場しない作家は見過ごされてしまい、最悪の場合、その活動は黙殺されてしまう。何かしらその痕跡が残っているならば救出していく。ご存命ならば話を深く聞いていく。ただ単に作品や資料を救出すればいいわけではなく、重要なのは、作家が当時持ち得たラディカリズムを研究者も共有する形で作業を進めることです。そうでなければ、作品や資料を残せたとしても、そこに秘められたラディカリズムは骨抜きにされて形骸化してしまう。
成相 
 美術館にいるので、作品や資料の現存が優先的な価値づけに結びつくことはよくわかります。ただ一方で、ラディカリズムが作品を残さないことによって保証されている場合もありますね。同時代的な「作品」解釈を逸脱し、リプレゼンテーションされること自体を批判するというラディカリズムのあり方。そこで最も問題になるのが再制作のジレンマです。破壊行為を表現とした前衛作家であるとか、制作するという行為を含めて「作品」というリプレゼンテーションを問うた「もの派」が、展覧会という機会、あるいは市場の要請によって再現・再制作されている例がむしろ近年増えています。写真や雑誌記事などを掘り返すことの先の提示の仕方、もしくは別の形の記録があり得るかどうか。
細谷 
 当然ながら美術館や美術の制度に対して作家がいかに意識的であったか、それを前提としなければならないでしょう。当時彼らが何に反応し抵抗したのか、それを無視しては文字通りの骨抜きです。ゼロ次元の加藤好弘は、パフォーマンスが一回性であることに極めて意識的であり、徹底してヴィジュアルの記録を残しています。記録して大衆メディアに撒いていく。一回のパフォーマンスをいかに拡張していけるかまで考えていた。それを踏まえた上で研究者側も保存に取り組まないといけないでしょうね。
成相 
 そこにはもうひとつ、作家本人よりも媒介者としての写真家や映像制作者の重要度が高まるという観点もある。
細谷 
 そうですね。例えば平田実は写真家であり記録者である。一貫して敗戦後の市井の人々への視座があり、その中で60年代の若者たち、既存のものを打ち破っていく若者たちの姿を発見し、それをフィルムに残した。そして彼は作家との共犯関係を築いていく。こうした視座や視点を押さえた上で、平田が何を撮ろうとしたのか、何を残そうとしたのかをきちんと捉えなければラディカリズムは抜け落ちてしまうでしょう。
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