鼎談=成相肇×細谷修平×平沢剛/インタビュー=ヴラスタ・チハーコヴァー <「1968年」の芸術表現とポリティクス> 千葉市美術館「1968年 激動の時代の芸術」展開催を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年10月5日 / 新聞掲載日:2018年10月5日(第3259号)

鼎談=成相肇×細谷修平×平沢剛/インタビュー=ヴラスタ・チハーコヴァー
<「1968年」の芸術表現とポリティクス>
千葉市美術館「1968年 激動の時代の芸術」展開催を機に

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第7回
ヴラスタ・チハーコヴァーが語る「1968年」

ヴラスタ・チハーコヴァー氏 1970年代初頭、横浜にて
ヴラスタ・チハーコヴァー氏は、1960年代後半から70年代にかけて日本の前衛美術に携わる面々と交わり、『美術手帖』誌をはじめとして数々の評論を執筆していた(とりわけ同誌1980年3月号の特集「美術に拠る写真、写真に拠る美術」は氏が担当した大きな仕事である)。だが、その後美術史からは名前が失われてしまっている。
本特集を機に、来日のきっかけから、当時の一線の美術家や評論家と知遇を得た経緯、そして学生運動と「プラハの春」の双方を直接経験した貴重なお話を語っていただいた。


「荻窪派」の一員 として行動

最初は留学生として、1965年3月から1967年10月まで日本に滞在しました。きっかけは、東京オリンピックの後にヨーロッパやチェコを訪れてくる日本の旅行団が増える中で、大学教員のグループに出会ったことです。当時プラハ大学の3年生で、数少ない日本語学科の学生の一人だった私は通訳を頼まれ、つたない言葉ながら何とか会話をこなしました。日本語辞書すら持っておらず、毎朝起きると小さな紙片に漢字を書き写し、それを覚えるためにトイレやお風呂場の壁に張ったりしていた私を、その先生たちは目にかけてくださいました。帰国後に辞書を送ってくださっただけではなく、半年間の留学のための奨学金までアレンジしてくれました。美術専門なので留学先は江古田の日大芸術学部に決まったのですが、当時はあいにく学生闘争が激化していて学校の門は常にバリケードで閉ざされ、授業を受けられる時間が少なかった。それでも熱心に学校に通った私はとうとう不満を感じ、お茶の水の理工学部の日本建築史コースに受け入れてもらいました。さらに半年後には東京芸大の美術史の聴講生になりました。その頃すでに英語やフランス語やチェコ語を教えてお小遣いを稼いでいた私は、どうにか自力で勉強の幅を広げることができたのです。

ところで、プラハに来ていた旅行団には日本の小説家や評論家のグループも含まれていました。その中の、たしか新日本文学会を中心とする団体でしたが、安部公房さん、飯田桃(いいだもも)さん、長谷川龍生さん、そして針生一郎さんらと知り合うことができました。彼らに日本で再会し、現代美術の勉強をさまざまに支援してもらいました。大学ではあまり良い顔をされませんでしたが、かなり大人ぶっていた私は、学校よりも外部での活動によって多くの知識を得たのです。特に芸大の聴講生になって下宿を江古田から荻窪に移してからは、赤瀬川原平の千円札裁判に関わる仲間と出会い、いわゆる「荻窪派」の一員として美術界で行動を広げられたことを誇りに思っています。

当時の日本社会に矛盾を感じる

1967年の秋、プラハ大学の卒業試験のために戻らざるを得なかった私は、すでに日本からのルポをチェコの文芸雑誌や美術新聞に送っていたので、編集部に見習いとして受け入れてもらい、卒業前から仕事を始めました。従って、いわゆるプラハの春は政治的な意味合いばかりでなく、個人的にも意義深い時期でした。3月には美術新聞の記事のためにヨゼフ・ボイスの影響が深まっていったドイツ美術界を取材して若きゲルハルト・リヒターやギュンター・ユッカーらに接触して原稿を書き、それは後に『美術手帖』にも載せてもらいました。学生紛争や安保闘争のデモを体験し、そのルポを送ってさえいたにもかかわらず、日本ではゲストにすぎないと考えていた私はそこにコミットする気になれませんでした。むしろ自分の専門に深く関わる千円札裁判のような、国家権力のいい加減さを痛感させる事件にこそ一般性を感じ、コミュニストの権力の下で耐えているチェコの芸術家たちと結びつけて、このテーマを取り上げたのです。

また、当時の日本社会に多くの矛盾を感じた私は、澁澤龍彦さんのいわゆる「サド裁判」にも通いました。矛盾というのはつまり、新宿紀伊國屋で初演が終わって裏口を外へ出ると、街路でポルノの商売が盛んに行われ、ポルノ雑誌もスタンドで自由に売られているわけです。同時期に出現したハプニングも、政治的なデモより人々に訴える力があるように私には思われました。マスコミ社会の消費主義を批判しながら銀座の「清掃」をしたハイレッド・センターだとか、また大阪や京都でメデイア社会や消費社会への反発を見せた具体グループの運動も印象的でした。それは自分にとって、母国チェコにおける文化活動の制約と、国家のイデオロギーによって侵される表現の自由の問題と密接に関わって感じられた。そしてそれらはまた、人々のコミュニケーションを疎外するマスメデイアへの批判的表現活動でもあって、同世代の感性に呼びかけるこのようなアートは衝撃的かつ頼もしかったのです。

ともあれ、1968年の前半をプラハで、後半を東京で過ごした私は多くの事を体験しました。4月にはチェコで日本の商業写真プロデューサー・能城年正と結婚し、日本で集めた資料に基づいて日本の美術についての卒論を書き始め、5月からは同僚とともにチェコにおいて最も重要な60年代をまとめる展覧会の企画に携わりました。6月に夏風邪で寝込んでいたとき、バサバサの髪の背の高い日本男性が来て話をしたいと言っている、と母に叩き起こされて出てみると、それはなんと革命思想家の太田竜さんでした。いいだももさんの紹介で、チェコの動乱を予期しながら状況の確認をしに来たのだと。日本の過激派にあまり関心がなく、病身で役立てそうにもなかったので、プラハ大学で日本語を教えていた、早稲田出身でやや左翼的な小野田勇夫を紹介しました。2か月後、太田さんの予感は、ソ連などワルシャワ条約機構軍のチェコ侵攻によって現実となりました。

純粋で明るさに満ちたアーティストたち

プラハのわが家はラジオ局の近くで、窓から覗いてみると、パイロットのヘルメットがはっきり見えるほど低い高度でジェット機が次々と飛行し、目の前の坂道で戦車が往来するといった壮絶な状態でした。ラジオ局攻撃の爆発によって窓ガラスが割れてアパートに散乱し、せっかく書き上げた卒論には破片が刺さってしまいました。その頃留学中でブダペストからプラハへと来てくれた日本の友人を駅で救出して、「ねえ、この戦車は本物?」「残念ながら映画の撮影ではないわ」などと笑いながら話したのを思い出します。しかし徐々に食料品も少なくなり、大学の門が閉ざされ、勤め先の編集部にソ連兵が泊まって我々の持ち物を使用するどころか我々の名簿まで作り始めると、こんな状態でプラハに留まってもしょうがないと判断した家族は、日本へ戻るようにと私に指示しました。そのとき私が持たされた荷物は、動乱の記録写真やフィルムなど、ひそかに運び出すべき占領のドキュメンタリーでした。それをのちに日本のグラフ誌に発表したことで私は70年代に帰国を禁じられ、丸10年間プラハの風景を見ることがなかったのです。けれど、そのおかげで同世代の日本の作家たちと接触しながら、本格的な美術活動を手掛けることができました。翌1969年の中原祐介コミッションの東京国際ビエンナーレ「人間と物質」にチェコの彫刻家スタニスラフ・コリバルを招き、また国立国際美術館の「現代の絵画 ―東欧と日本―」展(1981年)のために非常に長い時間をかけてチェコの作家の出品を準備したり、針生さんの企画で版画の交換展を行うといった仕事をしつつ、日本語も多少上達したので、いくつかの美術雑誌に評論の原稿を書き始めました。
いま60年代を振り返ってみてやはり重要だと思うのは、皆が将来へのヴィジョンを抱いていて、アーテイストの思考が純粋で明るさに満ちていたことです。現代史においては最後のことでしょうね。その後のポストモダン、70年代に入ると夢をつぶされて、二日酔いに似たような症状に陥っていくのです。アートがとても反省的になり、禁欲的で観念的な暗さに覆われていきます。万博後に日本で問題化したのは環境汚染や石油危機であり、チェコではコミュニスムの回復によって国家の抑圧が一段と強まりました。これらの社会現象は共通して、いわゆるボデイ・アート、ランドアート、コンセプチュアルアートやパフォーマンスに反映されることになります。80年代になるまでわれわれが芸術で生活費を稼ぐことはなく、貧乏しながら団結して厳しい社会生活に対抗していました。 (おわり)

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