中年ならではの生の諦めと性の色気などが調和した石田千の「鳥居」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年10月8日 / 新聞掲載日:2018年10月5日(第3259号)

中年ならではの生の諦めと性の色気などが調和した石田千の「鳥居」

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ようやく異常な暑さが終わった。毎日よく眠れる。

石田千「鳥居」(文學界)。正直にいうと、一読目は、就寝前に読んで、眠くて眠くて頭にまるで入らず、投げ出した。二〇世紀初頭の「意識の流れ」の方法に近いのか、統覚が外れているような知覚的な描写が繋げられていく(「私」などの一人称が書かれない)。ようするに文脈の取りにくい独特の文体が、入眠力を発揮する。幾人かの女性作家で似たような文章をみた気がするが、最初に思い起こしたのは、初期の川端康成の作風だった。二度目、元気な時に読み直して、面白かった。意識の主体は四〇代くらいの女性で、雲雄という彼氏を伴い、三浦半島の三崎で七月に行われる海南神社の夏祭りにあわせた一泊の小旅行をする。出発直前に七年前に別れた昔の彼氏から、もうすぐ死ぬという報告の電話を受ける。死にゆく者への想いと、その元彼との間に起こった妊娠(と流産)の記憶が随所に差し込まれ、共振しながら、生と死の往還を象徴する獅子舞と神輿の宮入りのクライマックスに溶け込んでいく。東京から気軽に行ける場所にありながら、妙に空の開けた違う世界・・・・感を与える三浦半島は、個人的にかなり好きな場所だ。脇にいる雲雄という名に喚起される「雲」が道中の夏空に映える懐かしい美しさが全編に漂う。子産石なる名所もある三浦半島は生と死の端境を描くのを得意とした泉鏡花も愛した場所である。何が言いたいかというと、祭りの盛り上がりと、木遣りが折々響き渡る情緒が渾然一体となっていく艶やかな描写は、最後に、鏡花も思い出させるのだ。軽快さと気怠さ、中年ならではの生の諦め(死の匂い)と性の色気などが調和した佳品だと思う。

小山田浩子「ヒヨドリ」(群像)。「私」と夫の間には子がいない。淡々とした日常生活を営む夫婦のアパートのベランダに、ある日、迷い込んだヒヨドリのヒナ、それを見放さずに餌やりに来る親鳥。ヒナの登場をきっかけにしてだろう、「私」は無邪気な母親たちと子供たちの遊ぶ風景を公園のベンチから眺めながら、不妊治療のあげく出産して消耗している同僚のことや、妹が既に二人目を宿していること、また、従妹が子宮摘出の手術を受けたと同時に離婚したことなど、〈産むこと〉を巡る諸々の思いや話に取り囲まれていく。結局、一時はベランダの内側に落ちてしまったヒナは、その日のうちに、無事に親鳥の元に飛んでいったのだが、翌日、「私」は自身の懐妊を知るのである――なんて書くと、ヒナの存在を象徴とする、何かほのぼのした単純な妊娠讃歌の内容に思えてしまうかもしれない。実際には、新たな生命体が作り出す日常生活の裂け目から、えもいわれぬ不安が顔を覗かせてくるというか、未熟な生命を世界に曝すことの微妙な残酷さや責任に対する恐れを湛えてみえる。特に、ヒナ鳥がいなくなった後に糞と一緒に紛れていた「濃いピンクと茶色が混じった」小さく尖ったもの――摘まむと「ビクン」という波打ちと共に、「生臭い、むうっとした、でも懐かしいような生き物の臭い」を残して消える謎の固形物(胎芽を表している?)の描写は、そのような根源的な〈不気味さ〉の感触を伝える点で秀逸だと思ったが、人によってはベタな話の範疇なのかもしれない。

石井遊佳「象牛」(新潮)。一言で、良い小説だと思うのだが、なんとも説明が難しい。前作『百年泥』(芥川賞受賞作)が、南米の古典的なマジック・リアリズム小説のステレオタイプなイメージを使い回しているような独特のあざとさが気になって評価しにくかったのに比べると、再びインドを舞台にしながら、インド学の疑似学説などを盛り込んだ知的な紀行文風の文章に、不倫の恋愛だか失恋だかの話をない交ぜにした体裁はアダルトな飄逸さがあって読感が良い。といってマジカルな要素も健在だ。題名の「象牛」を中心に、普通は想像上の存在と見なされる生命体がここかしこに遍在している。象牛のイメージがインドの古典的文献に本当に存在するのかどうかも私には皆目見当がつかないが、昔中国で買った茶壺に豚と魚が合体した図柄があったので、二種以上の動物の合成は神話的言説のパターンなのだろう。象牛なる生物がいて全然構わない。それでこの象牛が何の物語的な役割を果たしているのか、「不思議の国インド」に対するエキゾチシズムを増強しているだけではないのか、と言われてしまえば言葉に詰まる。しかし、宮崎駿のような作家にトトロは何を意味しているのかと問うのが野暮なのと同じで、そういう想像力の発現の仕方を第一に楽しむ知的ファンタジーなのだと考えたい。

金原ひとみ「アタラクシア」と綿谷りさ「オーラの発表会」(すばる)。どちらも新連載の一編目。十五年前、二〇〇三年下半期の芥川賞受賞コンビということで、過ぎ行く時の早さを覚えた。むろん、その後の活動こそが重要だと思うのだが、大変失礼なことに、読んでこなかった。しかし当時感じた二人の作風の対照性がそのまま生きてブラッシュアップされている印象なのは面白い。前者は、三〇代あたりの男女の不倫をベースに置いた恋愛模様を、各々の人物の視点を章ごとに切り替えて描くもので、その暗く陰った色調と殺伐とした心理劇は、英国あたりのヒューマンドラマ系のオムニバス映画を観るよう。後者は、思春期を経て、外部世界と自然な同調ができなくなり、結構な不思議ちゃんキャラとして成長した大学一年生の海松子みるこが主人公である。リア充の対極的な存在であるにも関わらず、妙に男に持てるという設定は、男女を入れ替えた形よりはファンタジー度が低いのかもしれない。が、「アタラクシア」の方の、題に反して生活にすれ切ってしまった人物たちの心理を剔抉するスタイルと並べると、世界との接触をシュガーコートにくるむふわふわ感も一つの生存戦略の形であることがよくわかる。「オーラ」は、キャラのイメージの確立に費やされた初回以降の話の大胆な展開が難しそうで、「アタラクシア」は一気に多視点的に広げた複数のエピソードの相互の絡みと回収が難しそうだが、双方とも連載の先行きが楽しみなのは変わりない。

坂上秋成「私のたしかな娘」(文學界)。志賀直哉に「児を盗む話」という疑似家族形成(人の娘の親になろうとする)話があるが、本作はずっと現代的。「私」こと神谷の発言はいつでも常識を越えない一方で、毎夜爪を噛んで切るなどの細かな行為の積み重ねが、抱え込まれた闇を効果的に浮き立たせている。ただ、狙って作り上げられた人物造型だとは思うが、彼の不遇に対する同情がわくことはなかった。サイコパスにも、かわいそうな人のどちらにも振り切らない、妙な落ち着きの悪さを感じるのである。しかしそのような定型性からずれた人物をこそ描きたいのであれば、その目論見はある意味で功を奏しているのであって、文句を言われる筋合いのものではないだろう。登場人物の自立性を保証しなければならない小説というジャンルでは、主要人物への同情の余地があるかないかで評価が割れることは多いが、おそらく問題はそこにない。本作の危うさは、むしろ、少女愛と同性愛をクロスさせるというセクシュアリティの扱いではないか。神谷は半無自覚的な同性愛者のようだが、想いの相手の娘を自分の娘と考える――あるいは自分と彼との間の娘と考える――という愛の屈折した発露の仕方は、美少女を相手に性犯罪者のような行動には決して走らない神谷の、その穏やかなきも・・キャラの「落ち着きの悪さ」をうまく作り出している一方で、大本の原因に同性愛を置くことになってしまっている。議論の余地のあるところだろう。

紗倉まな「春、死なん」(群像)。七〇歳の富雄は、妻に先立たれ、息子の自己満足な家族愛の形に逆に疎外を感じ、孤独に生きる気力を失い、視界が突如朦朧となる症状に見舞われている。時代錯誤感のある、えらく渋い小説だと思った。読後、プロフィールを確かめ、AV女優(しかも93年生)とあって、脳が一瞬のブランクネスを経過した後、世の中もずいぶんと進化したものだと感心した。内容ではなくスタイルの問題なのかもしれない。定年した夫を抱える家庭(の崩壊)を題材にした一昔前の定型的なリアリズム小説を読むような息苦しさが拭えない(それだけの筆力があるという証左でもあるが)。ネタバレとは違うと思うので記すが、いちばん最後、富雄が息子の嫁と孫に向かって発した「いっしょに洗濯でもしようか」の台詞の浮きぶりは、長く苦しんだトンネルの先に開けた光明を描いているのか、それとも最後に主人公を崖から蹴落とすような感覚で、その致命的な救われなさを描いているのか。おそらく意図は前者にあるはずである。しかし、もし後者のような〈悪意〉を随所で機能させたなら、さらなる進化が期待できるのではないかと思われるのだが、どうだろう。
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