連 載 シネフィリーの二つの世代 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く76|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」
更新日:2018年10月9日 / 新聞掲載日:2018年10月5日(第3259号)

連 載 シネフィリーの二つの世代 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く76

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ドゥーシェ(左)とアンドレ・テシネ
HK 
 セルジュ・ダネーが、ドゥーシェさんの映画の見方について、『愛する技法』(ドゥーシェの評論集)の出版の際に、文章を残しています。
JD 
 彼が、私についての文章を残していたのですか。
HK 
 はい。ダネーだけでなく、ビエットやスコレッキ、その他の60年代の批評家たちも、80年代に自分たちの映画批評のあり方について考察し、その中でドゥーシェさんの果たした役割について文章を残しています。ダネーによるジャン・ドゥーシェ流映画批評は以下に要約されます。「創造的行為のないところに、批評は値しない。」
JD 
 確かに、彼の言う通りです。
HK 
 おそらくその通りなのですが、もう少し説明を加えていただけないでしょうか。今日の映画批評を考慮すると、ドゥーシェさんの「愛する技法」は理解が難しいかもしれません。「愛する技法」という、タイトルが曖昧に取れるところもあるように思えます。好きな作品があれば、それについて何かを書くことが、批評行為であると考えられているようです。例えば、コルブッチとパゾリーニの間の差異は、今日の世界では存在しないのかもしれません。
JD 
 そうだとも言えますし、違うとも言えます。重要なのは、創造的行為を見るということです。さもなければ、批評に値しません。一つ例をあげます。昨日のことですが、1960年代に撮られたクロード・ソーテの映画を、テレビで見ました。タイトルは忘れましたが、その時代に大きな成功を収めていた作品です。全くもって申し分のない出来栄えですが、この上なく無意味なのです。完璧だとも言えるでしょう。巧妙に話は語られ、非常に良くできています。よくできてはいますが、別の意味においては非常に悪いものです。
HK 
 映画教育が求めているのは、クロード・ソーテのような映画監督ではないでしょうか。例えば、フェミス(国立映画学校)が求めていたのは、そのような教育法でなかったのですか。
JD 
 それについては……。
HK 
 触れない方がいいのですか(笑)。
JD 
 そういうことです。
HK 
 ところで、ドゥーシェさんの言う「創造的行為」とは何を指し示しているのでしょうか。ダネーなどを含めて、長年にわたり批評の問題の核心にあったはずですが、はっきりとしていません。
JD 
 創造的行為とは、映画だけに限った問題ではなく、すべての批評に関わることです。芸術全般に言えることですが、すべての芸術的作品とは、創造に関与するということです。物事を、先入観のない状態におく必要があります。例えばもし画家ならば、最初に行うべきは、何を描くかという問いです。目の前にカンバスがあり、何かを描かなければいけません。何よりもまず、カンバスの目の前に立ち、カンバスを眺めなければいけません。眺めるためには、一定の距離を取らなければいけません。

それから、カンバスに近づき、鼻がつくほどの距離で絵画と対話することになります。同じようにして、何が行われたかを確認するためにカンバスから遠ざかり、全体を見渡すことも不可欠です。批評的行為は、その距離に他なりません。創造的行為とは後退しながらも、再度作品に接近する動きのことです。つまり、文学、音楽などの、すべての芸術にとって接近と後退は不可欠なのです。それが、創造するということです。

批評行為とは、創造行為の中にあり、そして創造行為でもあるのです。例えば、小説家が何かを書いたのならば、小説家自身が再読することは、創造行為の一部です。創造する人間にとっては、避けることのできない問題です。面白い要素があるかもしれないが、別の要素も探さなければいけない。批評と創造は切っても切り離せない関係にあるのです。これが、「愛する技法」の言わんとすることです。

〈次号につづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテーク・ブルゴーニュ)
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