しき 書評|町屋 良平(河出書房新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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【書評キャンパス】大学生がススメる本
更新日:2018年10月6日 / 新聞掲載日:2018年10月5日(第3259号)

町屋 良平著『しき』 
日本大学 佐藤 述人

しき
著 者:町屋 良平
出版社:河出書房新社
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しき(町屋 良平)河出書房新社
しき
町屋 良平
河出書房新社
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言文一致というが、言と文が一致するとはへんな話だ。走っている車の絵を描くことと同じ矛盾を孕んでいる。固定してしまえば、車も言葉も止まってしまう。それでも日本文学において言文一致の小説が坪内逍遥と二葉亭四迷の努力を経て田山花袋で完成したとすると、それ以降の日本文学史とはほとんど私小説の歴史であった。私小説といい切って乱暴なら、自意識を小説化する方法の歴史であった、とでもいえばよいだろうか。

岩野泡鳴や葛西善蔵など多くの作家のなかを駆け抜けて私小説は発展を遂げていったが、自意識を書くことを自覚し、作品と作家の距離を逆説的な方法で近づけようとしたのは晩年の芥川、そしてそれに続いた初期の太宰治だった。太宰は自意識を捕まえようとし、自意識そのものを書こうとした。が、自覚的になったがために冒頭の車の絵のたとえのようなことに気づいてしまった。そこに彼の不可能性があった。さらに時代を下って第三の新人、そして昭和末期、平成の小説になっていくと、焦点人物の自意識、ないし単純な意味での心みたいなものを書くのが一般的になる。もちろんそこには作家の自意識が混入するわけだが、しっかりと物語を構築すれば一応は太宰の不可能性に蓋をすることができる。

ところでここで問題になるのは、焦点人物の心を地の文が語り得るのか、ということだ。主人公の心に主人公が自覚的なのはおかしい。絵の車を乗りこなしていることになってしまうからだ。そもそも人の心というのは図式化して文で描写できるものだろうか。ならば、芥川の「ぼんやりとした不安」とはなんだったのか。太宰情死の不可解さはなんだったのか。本当のところは自意識にも満たない、いわば未意識といえるものがあって、それらが複雑に絡み合って心は動的に回転を続けているのではないだろうか。

その未意識の領域に足を踏み入れたのが町屋良平の『しき』だ。地の文は思春期の少年少女たちに点々と焦点化する。しかし彼らは心を文にできない。思索をいきなり始めてはしどろもどろのまま終わったり、実際にはない会話の続きをひとりでしていたり、恋や友情にはさまっている感情に気づく前だったり。それらすべてに支えられていまの心が作られているのに、そのことに無自覚なのだ。だから書きようがないわけだが『しき』では焦点人物と距離をとってむしろ自意識の前の未意識が丁寧に書かれる。焦点人物が気づいていなくても文にされる。それこそ図式化だろうといわれるかもしれないが、未意識からサルベージされた文は文脈と共感によって言に解凍される。未意識が可視化されるから、まだ発せられていない叫びが見えてくる。クラスメイトも地元の友人もなにかに巻き込まれているらしい。自分自身もなにかと戦っている。しかしそれがなんなのかよくわからないし、自分がどう思っているのかもわからない。そのわからないところを文にしている。思春期の心たちが、彼らの気づかないところまで文にされる。焦点化しているのはもはや彼らではなく、人々の未意識の連続そのものなのかもしれない。生まれ続ける文体としてのからだが溶けあったところに言がある。こんな言文一致の術を、僕はほかに知らない。
この記事の中でご紹介した本
しき/河出書房新社
しき
著 者:町屋 良平
出版社:河出書房新社
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