軍服を脱いだ鴎外 青年森林太郎のミュンヘン 書評|美留町 義雄(大修館書店)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年10月13日 / 新聞掲載日:2018年10月12日(第3260号)

日本近代揺籃期の一知識人青年の青春の記憶をあぶりだす

軍服を脱いだ鴎外 青年森林太郎のミュンヘン
著 者:美留町 義雄
出版社:大修館書店
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青春の懐かしい記憶は、しばしば旅の経験と結びついている。日常を離れ、違った時間を、異質な空間で過ごすわくわくするような体験は、その人の原点となって、いつまでも忘れられない。まして日本近代の草創期に、西欧で過ごした体験は、その人の生涯を貫いて、内面の深いところに保存され、その思索形成に影響を与えたであろう。私はこうした旅の記録である海外紀行文や日記にトラベルライティングという呼称を勝手につけて読み続けてきたが、本書は日本近代文学の出発を担った森鷗外という文学者のトラベルライティングや文学作品を対象に、その内部を詳細に渉猟して、同時代的なコンテクストに脈絡づけた、魅力的な著作である。特筆すべきは作家・森鷗外の評伝という意味合いのみに収斂することなく、西欧近代の真中に投げ出された官費留学生・森林太郎という弱冠二十四歳の青年のめくるめくような西欧体験を鮮やかに描き出していることである。それは作家・鷗外の前史であるとともに、日本近代揺籃期の一知識人青年の青春の記憶を、確実にあぶりだして、興味は尽きない。

鷗外のヨーロッパ留学は1884(明治17)年8月から1888(明治21)年9月までの足掛け4年にわたるものであったが、早くから鷗外は留学、それもドイツへの留学を強く願望していた。しかし、なかなかその機会は訪れなかった。維新期に日本の急速な近代化の尖兵として、多くの官僚や学者、技術者たちが官費留学したが、その初発期の昂揚が収まりかけた時期にいた鷗外は、はなはだ不遇であったともいえよう。もちろん、何もかも最速で登り続けた彼のキャリアから分かる通り、年齢的にそうした初発期の留学生たちとは一緒になるはずもなかったが、彼自身の中では「遅れてきた青年」といったあせりがあった。だからこそ、この留学申請は鷗外にとって必須であり、はずすことはできなかった。しかし、この微妙なずれが、彼の西欧体験を豊かなものとした。お雇い外国人によって教育された彼の語学力は、ドイツで直ぐに有効に発揮され、主たる目的の衛生学研究においても、日本でのドイツ人教授らからの直接の教育、指導が役立った。ベルリンに到着して10日余りを過ごした鷗外は、ライプチヒにて1年、次にドレスデンに5カ月、そして1886(明治19)年3月から翌年4月までの約1年をミュンヘンに滞在した。ドイツでの日常生活にも慣れ、研究も軌道にのり、最も充実した時期がまさしくこのミュンヘンであったことが、著者・美瑠町義雄氏の筆致から生き生きと伝わってくる。

鷗外がミュンヘンについた日は、ちょうど謝肉祭の祭りの日であった。美留町氏はこのカーニバルについて調べ、鷗外が「祭りの楽しみ方をよく把握し、まことに当を得た選択をした」と書いているが、街を縦横に闊歩し、大いに青春を満喫する青年の姿が浮かび上がってくる。氏が本書で主張するように、これまで鷗外研究の中ではベルリンなどと比べあまり取りあげられてこなかったミュンヘン体験が、森林太郎という一青年にとっては、輝ける青春の一齣であったことがよく了解される。

美留町氏はこうして鷗外のミュンヘン体験を追跡しながら、後の作家・鷗外、知識人・鷗外の生成の根源を探っていく。画家・原田直次郎や、華族・近衛篤麿ら日本人滞欧者との交流は、近代日本の貪欲な西欧摂取の欲望とは別とする、東と西に分かたれた異文化の狭間に位置する日本人若者の瑞々しいまでの、その異質性への純粋な追及があったことが、著者が取り上げる様々なドイツ側からの資料から立体的に構築されて、説得力を持つ。またシュタルンベルク湖やオクトーバーフェストの逍遥は、新興国であったバイエルン王国の自由闊達な豊かな文化状況を鷗外に楽しまさせるとともに、その背後に立ちはだかる西欧近代帝国主義の巨大な影を感知させたであろうことが点描されている。その影の存在にまで、美留町氏は気づかせようとしているのだ。

ドイツ側の資料を組み合わせることによって現出する不思議な遭遇にわくわくさせられながら本書を読了した(例えば、オクトーバーフェストの電灯は「J・アインシュタイン電気興業」が請け負ったが、これはアルベルト・アインシュタインの父の会社であった。鷗外はその灯に照らされて会場を闊歩したのである)。この研究は大きくは日独比較文学・文化という括りになるのであろうが、私は本書はそれのみに留まらず、トラベルライティングという領域の研究と考えている。旅は異質な空間を、独特の時間によって移動する行為である。旅の記述はわからないことで満ちるであろう。そのわからないことを、言語や文化の違いを超えて克服するのがトラベルライティング研究とするならば、周到で緻密な当該地や同時代的な調査が必要となる。それらを原テクストと双方向的に往還させることの困難を、敢えて引き受けた本書の成功を、心から祝福したい。
この記事の中でご紹介した本
軍服を脱いだ鴎外 青年森林太郎のミュンヘン/大修館書店
軍服を脱いだ鴎外 青年森林太郎のミュンヘン
著 者:美留町 義雄
出版社:大修館書店
以下のオンライン書店でご購入できます
「軍服を脱いだ鴎外 青年森林太郎のミュンヘン」出版社のホームページはこちら
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