本を読む。―松山巖書評集 書評|松山 巖(西田書店)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年10月13日 / 新聞掲載日:2018年10月12日(第3260号)

33年間、541冊の書評 
本に関する優れたスナップショットを集成

本を読む。―松山巖書評集
著 者:松山 巖
出版社:西田書店
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本書には、松山巖の書評デビューとなった濱谷浩著の写真集『学藝諸家』についての書評(1983年7月)から、近年の、梯久美子著『狂う人 「死の棘」の妻・島尾ミホ」(2016年12月)の書評に至るまで、33年間に雑誌や新聞に発表されてきた541冊の書評が収められている。この大部の本を読み進むうち、単なる書評集とは割り切れない何かを内包していると感じられた。帯のコピーにある「書評というエッセー」はこの本の性格を言い得て妙なのだが、「エッセー」でも名状しがたい、何か新らしい種類の書物を読んでいるという感覚が芽生えていた。『本を読む。』を「読む」とは一体、何なのかという問いが私の脳裡に渦巻き始めた。

評する本には、膨大な紙数の本もあれば、短編もある。書評は、そのボリュームに関わらず、掲載媒体の中で書評欄として限られたスペースの文字数で評さなければならない。その本の内容はもとより、著者の視点と視野、語り方、本の世界の中での位置づけ、本が生まれた社会背景など多様な現実を視野に入れながら自らの視点で切り取る。30余年に渡り時代を彩った本たちを前にして連綿と続けられた松山の書評は、自ら読書したことのある本の評はもとより、読み知っていない本の評からも、その清明な文章を介して時々の時代感覚や当時の自身の記憶を、走馬灯というよりはスライドショーの映像のように小気味よく蘇らせる不思議な喚起力がある。その心地良さに、次から次へと自然にページをめくる手を進めている自分がいた。書評デビューが写真家の写真集というのは偶然なのかもしれないが、本書は、いわば、本に関する優れたスナップショットを集成した書と言えるかもしれない。

ところで、優れたスナップショットは誰にでも撮れるというものでは決してない。それは、たんに、眼前の現実を記録するだけでなく、自らの感性と知性で世界を一瞬のうちに切り取って凝縮し、再構成しながら、新たな光の下に開き示す豊かな技芸に他ならない。であるから、まさに、本という世界に対する評者の「視点」が逆に照射される。つまり、そこには、常に既に松山巌の「眼」があるのである。ただし、書評であるから、評者は読者との媒介者(メディア)であることが求められる。だから、松山の「眼」が背景で働いていても、決して前にしゃしゃり出ることはない。書評という批評の独自の部分である。とはいえ、優れた批評は、批評者の「眼力」によって読者の心にその本についてのある本質的なイメージを立ち上がらせる。本書の醍醐味は、それぞれの本の書評を集積(アーカイヴ)することによって、普段は、控えめに伏せられている松山巌という評者の「眼」の存在が、自ずと浮かび上がってくる所にあると思われる。

厚さ5センチ、888ページ、書評541本という本書は、批評のアーカイブという本のあり方を見事に体現している。かかる本のあり方は、実は、切に求められているものではないか。今日、無尽蔵の数のテキストが、ネット上にデジタル化したハイパーテクストとして漠然と存在するが、エントロピー増大の法則に従いいずれ霧散する危うさに晒されている。言葉が歴史を伝えてきたとするなら、その歴史が霧散するということだ。批評のアーカイブは、エントロピーの濁流に棹立てて抗う言葉たちの住処として有効な装置となりうるのではないか。折々の時代に生きる人間として本=作品に対峙しながら自らの視点で生み出された批評の言葉たちは、評者の眼力を発火点にして、その時々の社会的現実を否応無しに映し出し胚胎する言葉の磁力を強く帯びていると思われるのである。

書評の哲人、松山が、自身の書を評するとしたらどう記すのか? 自評を、読んでみたい気がする。
この記事の中でご紹介した本
本を読む。―松山巖書評集/西田書店
本を読む。―松山巖書評集
著 者:松山 巖
出版社:西田書店
以下のオンライン書店でご購入できます
「本を読む。―松山巖書評集」出版社のホームページはこちら
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