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更新日:2018年10月23日 / 新聞掲載日:2018年10月19日(第3261号)

早稲田大学学生団の大示威運動

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天野学長の復活を希望する無慮数千名の学生は『早稲田大学革新団』なるものを組織し、大正六年九月十一日夜早稲田劇場に大演説会を開催し、同夜九時半閉会を告ぐるや二千余名の学生は同大学に押寄せて是を占領した。写真は即ち十二日の朝校門前に殺到したる学生の大集団である。(『歴史写真』大正六年十月号)
「やると思えばどこまでやるさ」で始まる「人生劇場」の歌を知っている現代人は多いが、これが尾崎士郎の自伝的大河小説から生まれ、その舞台になった早稲田大学騒動を歌い、いまもって「早稲田大学第二校歌」と称され歌われているエピソードは、時代とともに忘れられかけようとしている。

この写真は、その早稲田大学騒動の現場写真(『歴史写真』大正六年十月号)だ。

大正六(一九一七)年、ロシア革命が起きて世界に衝撃が走った。三月と十一月の二度にわたる革命で、帝政ロシアは崩壊して社会主義国が誕生するが、第一次大戦はまだ幕を閉じず、世界は混乱のるつぼにあった。

早稲田大学では、前年末に始まった大隈重信総長の銅像に並べて綾子夫人の像を建てる工事が始まり、これに抗議した学生の動きがきっかけに騒動が起きた。

背景に、次期学長の座をめぐる第二代学長天野為之と初代学長高田早苗の争いがあり、学内を二分しての改革をめぐる学園紛争に発展した。学生団のリーダーに尾崎士郎、石橋湛山(のち首相)らがいた。

七月末には大隈総長自ら乗り出して解決を図るが収まらない。八月には大隈が一時重体に陥る出来事もあって、新しい理事を選任して収まったかに見えたが、九月に入って天野派教授らが解雇されて反発する学生たちがついに大学構内を占拠した。

この一枚の現場を報告する新聞記事からは、学生たちの熱気がリアルに伝わってくる。
「早大学生大会は、予報の如く十一日夜早稲田劇場に開かる。細雨頻なるにも拘らず、泥濘を踏んでくるもの踵を接し、定刻既に三千人を越え、満場立錐の余地なし。入口には革命の赤旗交叉され、来会者に一々檄文を配布し、会未だ開かれざるに『革新独立の歌』期せずして怒涛の如く起り、活気早くも場内に漲る」(九月十二日付け『萬朝報』)

劇場とは講堂のこと。尾崎が『人生劇場』に、この大会を描いている。

学内突入の主力になった学生武断派が、政界を巻き込んで主導権を握ろうとしていた。
「――大講堂にあつまっている学生の群集心理は何時の間にか方向を変えたのである」と会場の空気を伝えた尾崎の筆は、詳細に騒動のテン末を伝えている。
「われわれが学校を改造するにあたって、若し政党の力をたよることが必要でるとしたら学問の独立は何処にありや――今こそわれ等は学生の運動にかえるべきである」

尾崎の分身である主人公の青成瓢吉が演壇で叫んだが、武断派学生に殴られてしまった。騒動は、ここで終わりをつげる。

結局、大隈重信総長の忠告で天野が学長を辞して、新学長に商学部教授平沼淑郎(平沼騏一郎の兄)を就任させて抗争はピリオド。

学園紛争の様相は、それから半世紀余り後に日本中の大学に燃え広がった「大学紛争」を連想させる。大正時代の大学紛争は警視庁の正力松太郎が学生たちを説得して、一時的ながら鎮まるが、昭和の東大闘争は安田講堂の攻防に象徴される、政府との全面対決になって終わった。

『人生劇場』に戻れば、終幕の虚しさを抱えた「青成瓢吉」は早稲田を去っていく。

写真に写る校門は、現在の早稲田大学正門ではない。また、「大講堂」あるいは「早稲田劇場」とあるのは、明治二十二年に竣工した「大講堂」で、騒動から六年後の関東大震災で崩壊する。現在の大隈講堂は、昭和二年に竣工したものである。
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