接吻 書評|中本 道代(思潮社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年10月20日 / 新聞掲載日:2018年10月19日(第3261号)

接吻 書評
戦後の思索の匂いがする詩人の言霊

接吻
著 者:中本 道代
出版社:思潮社
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接吻(中本 道代)思潮社
接吻
中本 道代
思潮社
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「ぶどうの果汁を叔父と/風の吹く野原で飲んだ」(「帰郷者」)。詩集劈頭の詩が語るのは、詩人が故郷へ帰郷し、幼少期にもどって、詩作(思索)することである。

生きとし生けるものとは、動物や植物たちのことだが、悲しみが、人間存在に重なる。詩人の少女期は、神秘な秘密を含み、切断された意味の幻影とも重なるのだが、動植物の色彩感にあふれた宇宙と天地玄黄の秘密をすべて明かすわけではない。ここには、詩が拒絶する感覚世界がある。感覚世界は、抒情の破片となって詩の世界を開示するが、少し踏みこむと超感覚世界の境界が思索を断絶させる。中本道代さんの詩には、感覚と超感覚のあいだを表現する、広島方言や文語を二重に超越した戦後の口語詩がみえる。

詩集は、みごとに萩原朔太郎賞を受賞した。朔太郎は、セガンティーニの絵や伊東静雄の詩の「帰郷」とともにある。朔太郎の詩の怖さは、世界との、宇宙との、人との、出会いの時間が、動植物と共生する感覚世界と超感覚世界のあいだにあることだ。中本道代さんが、少女期のアウラを世界や身体の畏怖そのものに表象するとき、朔太郎の詩の走りと伴走しているようだ。「幸福だったことがあった」(「プネウマ」)。神秘の詩の審美な言葉が、痛みの沈黙と余韻を語る。「母はどこから来て―/どこへ行ったのだ」(「丘の上」)。詩人のたえているものを掘りあてる。「ぱらぱらと雹がふってきた」「あなたは遠くで泣いているのですか」(「水晶の手紙」)。化石は美しい跡をみせながら、季節のたゆたいと心象の窓に置かれたままだ。「死なないようにと そればかり考えて/何億年も生きた」(「ウミユリの形」)。傷ついた陶器に花を生け、記憶を生ける。光と闇へと駆けあがり駆けおりる言葉は、意識であり、無意識であったが、時には夢想のなかに、幼い児への「接吻」を表象する。詩の土地は、広島の街や丘や大陸の大地からの影を引いた記憶の風景である。

「ぐみ ということばが好き/なみだぐむ/めぐむ/つのぐむ/さしぐむ」(「ぐみ」)。象徴的な言辞も、そっと詩人の生活を暗示するだけだ。「朝は謎のように窓の外高く待機する」(「朝」)。具象即抽象の詩のなかに、詩人は痛々しい心象を書きとめるが、そこには存在がうめく。うめきは、季節のうつろいとともに、せまってくる。そんなに、悲しまなくてよい、歌わないでもよい。「むかし京都に棲んだことがあった」(「冬の素描」)。動物であるが、人の声である。植物であるが、人の心である。言葉の集積が、宇宙を産む詩人のささやきと、記憶を繕う場所となる。少女期のおもかげ橋をわたりながら、悲しみは、癒されないから、ただ祈るだけだったことがあったのだろうか。詩人は何に祈るのか。「隣室では祈り続けていた/涙も流れ続けて/そこでだけ毎日泣いた」(「学校」)。詩人の感覚世界は、動物や植物、自己の身体や他人の身体に出会う広範に現象した世界である。

宇宙から四季の元素へと、詩が流れ出る。反時代の闇にひかる花や雄鹿や蛇におどろく。叔父も叔母も母もいるが、父の影がない。動植物の化石は、無分別の美の光学であり、存在の世界を畏怖する。詩人の言霊には、戦後の思索の匂いがする。「わたしはやがてその村を出て/遠くを彷徨いながら生きた」(「喇叭水仙」)。陶器に釉薬をほどこし、究竟の詩によって拒絶の塊がほどけると、みごとに金継ぎをする世紀の詩人が生まれた。
この記事の中でご紹介した本
接吻/思潮社
接吻
著 者:中本 道代
出版社:思潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
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