最後の馬賊 「帝国」の将軍・李守信 書評|楊 海英(講談社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年10月20日 / 新聞掲載日:2018年10月19日(第3261号)

最後の馬賊 「帝国」の将軍・李守信 書評
祖国への思いに貫かれた李の一生 
内モンゴル独立運動を軍事面で支える

最後の馬賊 「帝国」の将軍・李守信
著 者:楊 海英
出版社:講談社
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「本書の主人公李守信は、最後のモンゴル人馬賊だった。彼はまた勲一等瑞宝章を授けられた大日本帝国の将軍でもあった」と著者自らが「あとがき」で記すように、サブタイトルにある「『帝国』の将軍」の帝国とは、まずは日本を指しているようだ。本文中でも彼を乃木将軍になぞらえたりする記述がしばしば見られる。

しかし彼は、日本に忠誠を捧げ日本のために戦ったのではない。その行動は一貫してモンゴル民族の自決(民族自決、独立)を目指すものだった。「内蒙古帝国建設のため喜んで捨石となろう」が彼の変わらぬ信念で、すべての行動はその一点にぴたり収斂する。とすると「帝国」は、今も内モンゴル人の見果てぬ夢にとどまる彼らの独立国家と解するのが、素直だろう。

関東軍の軍略の基本は、ソ連の南下の防止に尽きる。1924年にモンゴル人民共和国(北蒙古)がソ連の影響下に建国されてからは、南の内モンゴルに強力な防共国家をつくって防波堤となし、併せて中国をも牽制することが課題となっていた。当時、遊牧民たるモンゴル人は、満洲西部から内モンゴル一帯にかけ広く分布していたが、とりわけ内モンゴルでは多数派中国人たちから不当な圧迫を受けるのが普通だった。彼らに自決運動が起こるのはごく自然。

内モンゴルの独立運動の政治的な象徴がジンギスカンの末裔・徳王なら、それを軍事面で支えたのが李守信だ。満洲生まれの内モンゴル人。一介の馬賊から軍団指導者にまで上り詰め、敵と味方がつねに入れ替わるような戦いの中で、用兵の術と権謀術数を知り尽くした彼は、満州事変以後の情勢を見きわめ、結局「内モンゴルを(中国から)独立させるには関東軍の力を利用するしかない」との思いを深くしていた。

1941年、「モンゴル自治邦」成立。それまでのモンゴル軍政府(36年)、モンゴル連盟自治政府(37年)、モンゴル連合自治政府(39年)など日本のコントロール下でのさまざまな政体を含め、いずれも李が描いた絵図通りのものではない。関東軍は、モンゴル人による自決、すなわち強大な独立政体の出現を好まず、せいぜい制約の多い自治しか認めようとしなかったのだ。

戦後は早々とスターリンにも裏切られる。内モンゴルに侵攻したソ連はその地をモンゴル人には委ねず、密約により再び中国に託したのだ。その中国はやがて共産中国に変わる。中共の異民族弾圧は民国時代よりはるかにべき数をあげる。中でも文化大革命時には自治区全体で35万人が逮捕され、2万8千人が殺害されるジェノサイドだったという。

李は徳王に従い、49年にモンゴル人民共和国に帰順。しかし強制送還され、15年におよぶ拘禁生活のあとひっそりと暮らした内モンゴル・フフホト市で70年、だれにも看取られず亡くなっているのが発見された。その死には疑念が残るとも。ともあれ軍事や政治の現場ではあらゆる物事が状況の変化に応じ意味を反転する。その中で変わらぬものは何か。祖国への思いに貫かれた李の一生は、それ自体が悲劇性を帯びて胸を打つ。
この記事の中でご紹介した本
最後の馬賊 「帝国」の将軍・李守信/講談社
最後の馬賊 「帝国」の将軍・李守信
著 者:楊 海英
出版社:講談社
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