思想の廃墟から 歴史への責任、権力への対峙のために 書評|鵜飼 哲(彩流社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年10月27日 / 新聞掲載日:2018年10月26日(第3262号)

廃墟のなかで戦後思想を検証し、鍛え直すために

思想の廃墟から 歴史への責任、権力への対峙のために
著 者:鵜飼 哲、岡野 八代、田中 利幸、前田 朗
出版社:彩流社
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いま、日本社会にはさまざまな構造的な問題が明確なかたちをとってあらわれている。それらの多くは歴史的な背景をもち、植民地主義・帝国主義の時代、その後の冷戦期、そしてポスト冷戦のグローバル化の時代へと移り変わるなかで、日本社会がその解決を否認し、先送りをしつづけてきたものだ。

たとえば、福島原子力発電所の深刻な事故と放射能汚染は、米国による広島と長崎への原爆の投下を一つの起点とする戦後の核戦略の一つの帰結であった。また、沖縄への軍事基地の集中に象徴される軍事主義の暴力は、平和憲法を掲げながら、それと矛盾する在日米軍基地と自衛隊の存在を長年にわたって容認してきた戦後日本を象徴する問題である。そして、朝鮮半島において軍事的対立の解消、非核化、朝鮮戦争の終戦、さらには南北の統一へとむかう動きが急速に進展しているなかで、それに対する日本社会の反応は、いまだに戦争責任と戦後責任を否認し、植民地主義的な態度を改めることなく、冷戦構造のもたらした対立を利用しつづけているようにしかみえない。

社会の問題や矛盾がはっきりとあらわれているにもかかわらず、それらを見ようとせず、変革を求めて動く人びとの努力を意識的に遮断し、その一方で、日常の隅々にまで「日本すごい!」という自閉的で「前向き」なナショナリズムが流布している。このような時代にあって、歴史に向き合い、権力と対峙するための思想があらためて必要だと、ここで書評する二つの書物は問うている。

『思想の廃墟から――歴史への責任、権力への対峙のために』は前田朗による三人の思想家・研究者(鵜飼哲、岡野八代、田中利幸)への公開インタビューの記録である。インタビューが行われたのは二〇一四年一二月から二〇一六年一月のことだ。その内容は従軍「慰安婦」問題と日韓合意、シャルリ・エブドをめぐるテロ事件、福島原発事故と「原発を問う民衆法廷」、オバマの広島訪問、安保法制の成立など、この時期に起こった重大な出来事とテーマである。

もう一冊の『思想はいまなにを語るべきか――福島・沖縄・憲法』(以下、『思想はいま』)は、二〇一六年に行われた前田朗による高橋哲哉へのインタビューをまとめたものだ。原発の問題、沖縄の米軍基地をめぐる問題、そして改憲問題が主に扱われ、『思想の廃墟から』と同様にインタビュー当時の現在進行形の問題をめぐって議論が展開されている。

前田は「私たちの平和主義や自由主義の限界」と「民主主義の怖さ」を強調し、「日本国憲法の下で、それなりに民主主義を獲得し、いっそうの民主主義を実現しなければならないと考えてきたのに、思いがけない陥穽にはまりこんでいるのではないか」(『思想の廃墟から』二三六頁)と問う。すなわち、民主主義、平和主義、自由主義という戦後日本社会を形作ってきた諸理念は、それらと相反する問題や矛盾とともにあったという反省から思想を検証しようというのだ。

そこで、日本の思想は何をなしてきたのかが問われることになる。二冊に通底しているのは、悲観的な総括だ。戦後日本のリベラル派あるいは護憲派の知識人や運動が抱え込んだ限界が冷静に指摘されている。鵜飼哲が「『日本人による、日本人のための護憲運動』になってしまっていないか」(『思想の廃墟から』二三三頁)と問うように、日本社会の問題や矛盾を解消しようとする運動や思想は、自らのナショナリズムやレイシズムに無自覚・無批判であったとの的確な批判がなされている。この点は高橋哲哉の沖縄の基地問題をめぐる発言にもあらわれている。高橋は言う。「ずっと安保条約があって米軍基地があって、その基地から米軍が朝鮮、ヴェトナム、アフガン、イラクなどへ出撃して戦争を繰り返してきた。はたしてこれで日本は憲法9条を守ってきたと言えるのか」(『思想はいま』九五頁)と。高橋との対話を受けて、前田は「日本の平和運動、護憲運動が歴史的にそれなりの努力をしてきたし、国際社会に向けて、広島長崎も含めて平和への願いを情報発信してきたにも関わらず、現状に立ち至っている。それを私たちはどのようにしてもう一回立て直していくのか」と問うた(同書、一八〇頁)。

では、どう立て直していくことができるだろうか。近年、原発や基地をめぐる問題は、対米従属論という枠組みで論じられることが多い。日本はまともな主権国家なのかという問いかけが、リベラル派のなかで広く流布している。そして、主権国家としての真の「独立」を勝ち取れば、すべての問題は一定の解決をもたらすとの期待や前提も浸透しているようにみえる。だが、本書から示唆されるのは――しかし、本書のなかにも対米従属論が多分に流れているのだが――、そのような言説には問題があり、主権国家の「独立」そのものがグローバルな諸関係のなかで構造化されているということだ。

たとえば、鵜飼は安保法制の成立と同時期に、フランスで開催された国際武器見本市に日本の商社が参加したこと、フランス政府が日本の戦争責任に鈍感なことをあげ、その「きな臭さ」を語っている(『思想の廃墟から』二一〇頁)。また、田中は「慰安婦」問題を日本の特殊な問題とするだけでは不十分であり、普遍的な「戦争における性の搾取の問題」としてもとらえる必要があると述べ、さまざまな戦争で繰り返されてきた支配の一形式としての強姦を問うた(同書、七六頁)。そして、高橋は、福島第一原子力発電所の事故後にアメリカやフランスなどが日本とともに「共通の利害を持って、連携して原発を守ろうとしている」構図に注目している(『思想はいま』四四ページ)。これらの事例が示すのは、基地・軍隊と原発を維持し、性暴力や性差別を隠そうとする諸国家と資本とのグローバルな利益共同体の存在である。私たちは、原発や基地、戦争責任や植民地責任をめぐる問題を、日米関係という二国間の支配・被支配関係にとどまらない視座から考える必要があるのだ。

とするならば、原発、基地・軍隊、継続する植民地主義やレイシズムなどの諸問題を解消していくには、国境を越えた想像力とネットワークが必要不可欠となるだろう。福島原発事故以降を生きる私たちは、フランスの原発体制のもとでウラン採掘とそれにともなう放射能汚染の現場となっているコンゴ、中央アフリカ、マリの民衆とつながることができるだろうか? 在日米軍基地のもたらす性暴力を問う運動は、サンフランシスコで従軍「慰安婦」問題をめぐって少女像を設置した運動、朝鮮半島からの戦争責任と戦後責任を問う声、自衛隊の駐留地となったジブチの民衆とどのように出会えるだろうか? もうすでにこれらの問題意識のもとで実践し、思想を紡いでいる人びとがいる。

いま求められている思想とは、国家という制度、そして国家間関係という枠内でわかりやすい解――高橋のいう基地引き取り論はその端的な例である――をみつけだすのではなく、制度を越えたところに問いや構えを設定しなおすことなのではないか。それは新しい作業を一から始めるという意味ではないはずだ。「思想の廃墟」のなかで瓦礫のように捨て置かれ、ばらばらになったものを拾い上げ、磨き直し、つなぎあわせていく作業である。たとえば、松下竜一の暗闇の思想、金武湾闘争の自立の思想、原発建設を阻止してきた漁民たちの思想、米軍や自衛隊の基地建設や演習を実力で阻止してきた民衆の闘争など、私たちが参照できるものは多くある。この点で、本書は戦後日本のリベラル派や護憲派をあまりにも単純化しすぎているようにみえる。また、本書が戦後日本のリベラル派を批判してきたラディカリズムやアナキズムの系譜を無視していることにも違和感をもつ。「歴史への責任」を問う者たちが、歴史を単純化しているのだとしたら、そのような言説こそが現在の日本の思想状況を象徴する出来事であるだろう。
この記事の中でご紹介した本
思想の廃墟から 歴史への責任、権力への対峙のために/彩流社
思想の廃墟から 歴史への責任、権力への対峙のために
著 者:鵜飼 哲、岡野 八代、田中 利幸、前田 朗
出版社:彩流社
以下のオンライン書店でご購入できます
思想はいまなにを語るべきか − 福島・沖縄・憲法/三一書房
思想はいまなにを語るべきか − 福島・沖縄・憲法
著 者:高橋 哲哉、前田 朗
出版社:三一書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「思想はいまなにを語るべきか − 福島・沖縄・憲法」出版社のホームページはこちら
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