犯罪精神病 書評|オスカル パニッツァ(平凡社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年10月27日 / 新聞掲載日:2018年10月26日(第3262号)

犯罪精神病 書評
「狂的な文章」とその翻訳
自在かつ逸脱を懼れぬ訳文を髄まで堪能

犯罪精神病
著 者:オスカル パニッツァ
出版社:平凡社
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二十世紀初頭、バイエルン地方の大都ミュンヘンの路上を裸同然で歩いていた一人の男が逮捕、のちに精神病院へ収監された。発狂しかけたなりで街を徘徊していた男とは、かつての精神医学界の若き旗手で優れた精神科医、またドイツ語・フランス語・イタリア語など多言語を自在に書き分けた異能の作家オスカル・パニッツァその人であった。

幼少期、未だカトリックが大勢を占めていたミュンヘンにあって、イタリア人の父と、フランスから亡命したユグノー出身の母、この両者の宗教的齟齬の犠牲となり、父方のカトリックから母方のプロテスタントへ引き裂かれるように改宗させられ、その後は神学者にも比すべき一途な信徒として成長しながら、敬虔の度が過ぎたゆえか、のち新旧両派のいずれをも激烈に糾弾愚弄する多くの冒涜的作品群を書き綴った。シュルレアリスムの領袖アンドレ・ブルトンは、発狂した精神科医であるこの醜聞にまみれたほぼ無名の先人作家へ敬意とともに「聖杯のなかの蠍」と不敵な異名を捧げた。こんな彼を異端と呼ばずして他の誰を異端と呼ぶのであろう。

パニッツァというと一般に知られているのは物議を醸した悖徳はいとく劇「性愛公会議」やミシェル・フーコーの論及で知られる両性具俱譚「あるスキャンダル事件」などであろうが、僕個人はかつて渡辺一考氏が主宰した書肆「南柯書局」から出た瀟洒な函入の作品集『三位さんみ一体亭』に所収の素朴な初期短編、表題作のティーク風な辺境奇譚「三位一体亭」や「りゅうの山」が好ましい。また、のちに筑摩書房から全三巻で出された、これまた函入の浩瀚な『パニッツァ全集』の第三巻に収録の「ある犬の日記から」などにも愛着がある。

本書『犯罪精神病』は筑摩の全集から不可抗力的にこぼれ落ち、しかし遺漏を看過し置くには惜しいパニッツァ後期の「狂的な文章群」が満を持してまとめられたものである。

例えば一八九九年に草された一編、筆禍により迫害されたパニッツァが、ドイツからスイス、そのスイスも追われフランス、そこで見聞した華やかなパリ・モンマルトルの祭日のスケッチ散文「壁の内側でも外側でも」。クリシーやピガールの広場で駆け回る回転木馬の野兎ラパンに乗った婦人連を目にした作者の筆は「彼女たちは痙攣を起こしながら死に物狂いで長い耳にしがみついている――流れてくる音楽はグノーの『ファウスト』――よござんす、淑女の皆様方、野兎ぴょん!」と書きなぐる。この前段では脈絡を無視した「ラパン」の連呼。「何でもかんでもがラパンだ。面倒や混乱が避けられない状況、もはや誰もが長々と描写するだけの能力もその意志も持ち合わせない状況なら、何だってラパンなのだ。したがって、ラパンは一つの状況だ。一つの出来事だ。誰かが何かあることを期待したが、その当てが外れたとする。そりゃラパンだ!」

文学的発狂。少なくとも「躁」的文体と呼んで差し支えないだろう。

彼の作品で現在も読めるものはみな一九〇〇年まで、すなわち十九世紀の末に書かれたテキストのみである。これゆえ事実上の「十九世紀の作家」に留まる不遇の作家パニッツァはしかし、二十世紀に入り十六年間も幽閉されていた癲狂院のなかで、実は厖大な量の文章を書き続けていた。が、その最晩年の遺稿群が今は惜しくも散逸、もしくは厳に封印され、今後も我々が目にすることは困難らしい。二十世紀フランスのアントナン・アルトーがやはり晩年、ロデーズの精神病院でしたためた異常な量の手記が日本でも読めるようになり、それが現代の文学者たちに今後甚大な影響を与える可能性を考えると、パニッツァの遺稿散逸は返す返すも口惜しい。

本書は我が恩師故種村季弘が生前、精魂を傾けて訳し遺した草稿を、気鋭の学者多賀健太郎氏の行き届いた追訳捕訳と校正を賜ることで成った。種村の自在かつ逸脱を懼れぬ鏤骨の訳文を髄まで堪能できる一書である。(種村季弘・多賀健太郎訳)
この記事の中でご紹介した本
犯罪精神病/平凡社
犯罪精神病
著 者:オスカル パニッツァ
出版社:平凡社
以下のオンライン書店でご購入できます
「犯罪精神病」出版社のホームページはこちら
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