おるもすと 書評|吉田 篤弘(講談社 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年10月27日 / 新聞掲載日:2018年10月26日(第3262号)

おるもすと 書評
生の縁より見えてきた死生感が盛り込まれる

おるもすと
著 者:吉田 篤弘
出版社:講談社
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おるもすと(吉田 篤弘)講談社
おるもすと
吉田 篤弘
講談社
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「もうほとんど何もかも終えてしまったんじゃないかと僕は思う」という冒頭から始まる物語。なにかが終わったところから始める、という方法自体は、これまでにもいろいろな形で試みられてきたように思う。しかしここでは「ほとんど」がついているところがミソである。表題の「おるもすと」は英語の「almost」、つまり「ほとんど」という意味を含んでいる。この小説は、「ほとんど」と呼ばれる部分の残りの部分を生きている「僕」を描いた小説なのである。

「僕」は、「ときどき石炭を選り分ける仕事」をしていて、仕事場仲間から「こうもり」と呼ばれている。彼がたった一人で住んでいるのは、「車も通れない弓なりにカーブした崖っぷちの細い路地に、かろうじてこびりついているような家」。しかも、「崖の下には墓地が広がり、その辺りに住んでいるひとは、僕の家を『お墓の灯台』と呼んでいる」という、孤独の極みのような情況である。しかし、「僕」はその情況を、決して淋しいとか辛いとか思ってはいない。しずかに受け入れ、淡々と日々の生活を送っている。なにも求めない、求められない、透明な存在として世界を見つめる、その視線に弾かれる。例えば、崖の上から見える景色のことを次のように描く。
《窓を開けて見おろすと、死んでしまったひとたちの「しるし」が見える。僕は墓のひとつひとつを「しるし」だと思う。ここに生きた、そして死んだ。終わり。覚えておこう。その「しるし」に石をひとつ置いておこう。それが墓だ》

墓のことを「しるし」と呼び、生と死のことを究極のシンプルさで語るこの文章は、とても清々しい。「墓」という一文字は、命に蓋をするような感覚だが、「しるし」という言葉に置き換えれば、それは命の痕跡、命を思い出すためのきっかけとして響く。

そんな「しるし」の見える家の中で、「僕」は、こんなふうにも思っている。
《ここでひとりで暮らしてきて、想像することくらい愉しいものはないと思う。出来れば、この愉しみだけは失わずにいたい。その他のほとんどのことは終えてしまったり忘れてしまったりしたけれど、わざと少し色を塗り残すみたいに、想像する思いだけは、手つかずのまま変わらないようにと願っている》

ほとんど終わったところに残っている想像の愉しみを述べるこの文章は、吉田篤弘の仕事の本質に繋がっていると思う。

「『おるもすと』の話のつづき」の「あとがきのようなもの」によると、「おるもすと」という名の小説は「十二年間、ずっと書きつづけてきた。あるいは、この小説をこの十二年間、ずっと書けなかった」という。そして、世田谷文学館の企画で、活版印刷による限定本として、文学館で発売されたという経緯を持つ。とても特別な一冊だったのである。

ほとんど終わっているけれど、でも、まだなにかある、ということ。長い時間をかけて書き継がれたこの小説を、著者が五十代半ばに出版したことに大きな意味を感じる。デザイナーであるとともに、様々な「物」をめぐって、どこか懐かしい、不思議な物語を紡ぎ続けてきた著者だが、ここには実年齢の実感が込められている気がする。「しるし」は、生と死を分かつ「しるし」でもある。どんな人生を送ったとしても、最後は一人で死んでいくしかない人間の、生の縁より見えてきた死生観が盛り込まれているのだと思う。
この記事の中でご紹介した本
おるもすと/講談社
おるもすと
著 者:吉田 篤弘
出版社:講談社
以下のオンライン書店でご購入できます
「おるもすと」出版社のホームページはこちら
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