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更新日:2018年11月3日 / 新聞掲載日:2018年11月2日(第3263号)

「新潮」「すばる」「文藝」各誌の新人賞受賞作を読む

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一〇月は新人賞月間だったので、各誌の受賞作を取り上げたい。小説なんて、労多くして益少なし。難しい課題に難しく立ち向かう苦労を払うほどに孤独に苛まれ、読者数を減らす。割に合わない仕事である。人類の叡智といって大げさなら、せめて「文学史」への奉仕の感覚があったほうが、やりがいが得られるのではないか。そう思って、評を過去の作品に関係づけることも多いのだが、余計なお世話かもしれない。

三国美千代「いかれころ」(新潮)。選者の川上未映子の指摘するように、谷崎潤一郎『細雪』を想起させる趣。しかし大阪が舞台で大阪弁が印象的という以外には、女子目線の縁談話、家族の衰退の兆しの描写といったところが外見的な共通点で、その程度の条件なら他にも類似作はあるはず。そもそも南河内の農村と船場のブルジョア家庭では舞台がだいぶ違うし、本作の最大の特徴は、奈々子が記憶する三十年前、四歳当時の視野から照射される群像劇の語り方にあって、それは谷崎にはない。では、なぜそういう感想になるのかといえば、ひとえに志保子という精神疾患を抱える女性と『細雪』の緘黙な雪子の存在とが、半強制的で因習的な結婚に対する静かな拒否の姿勢において被るからだ。色んな意味で社会的に生きそびれる・・・・・・ことを恐れる価値観を植え付けられてきた我々現代人に、生の始めから終わりを待つ・・・・・・・・・・ような姿は聖性を帯びて映る。それが、婿養子であることに不満を抱える父と分家を余儀なくされた母の婚姻の失敗を目の当たりする奈々子の視線によって、なおさら強調される。文章の熟れ方、構成のバランス感覚など、否定する要素がほとんどない。が、途中、映画にしてくれないかなとも思った。一地方の一昔前のちょっとした生活記録的な描写に退屈を覚えたのである。次の一手が難しそうな作風なので、その出方を楽しみに待ちたい。

須賀ケイ「わるもん」(すばる)。「いかれころ」と、コンセプトも、子ども言葉のような題も、かなり似ている。だが、こちらは叙述のスタイルという点ではもっとラディカルだ。社会的成熟と時間の刻印を免れた子(ピュアな人)の視線で話が展開するため、文脈を理解するのに労力を要する(というか最後まで完全には理解できない)。ウィリアム・フォークナーの名作『響きと怒り』のベンジー・セクション(言語能力を欠く知的障害を持ったベンジーを通した語りのスタイルで有名)を思い出させる。しかし「幼稚園児」(奥泉光)の視点に振り切っているとも、「徹底して説明が排除されている」(江國香織)とも言い切れない、高度な認識の拡がりが描写を通してちらつくことがないわけではない。かといって「いかれころ」のように、完全に大人になった事後的な知性にそれを補わせる方法からは、さらに遠い。ぎりぎりのところで踏ん張っている言葉の操りに巧さを感じた。押し入れに仕舞われた複数の簪を母と一緒に取り出しながら、人生の節目を想起するところなど、ベタに涙を誘うパートもある。ただ、フォークナーの大作と違い、純子セクションだけで完結している話である。今の時代では、視点を複数に違えて一家の内的崩落をどろどろと描き出すのは大げさなのだろう。中心となる父の出奔と帰還のエピソードを、やや心温まるノスタルジー(母の優しさ)で包んでいるため、非常に狭い世界に自足して見えるのは否めない。小説は論説ではないので、だから何? という終わり方は許されて然るべきだと思うが、この作品はとりわけその印象が強く残るため、評価が割れそう。

山野辺太郎「いつか深い穴に落ちるまで」(文藝)。地球を貫通する穴を掘ってブラジルに続く道を作るというお馬鹿な国家プロジェクトに、就職から定年間近まで携わった男の話。シーシュポスの神話ばりに永遠の反復行為に囚われる手合いの、よくある寓意物語かと思いきや、最後に穴はちゃんと貫通してしまう。選者の斎藤美奈子が、自分は地球の内部構造(マントルや核)が気になって仕方がない、その辺の科学的妥当性を登場人物の誰にも問わせないまま、しれっと物語が書き切られていること自体がテクストの中心に大穴が空いているアナロジーになっている――ゆえにかくも変な小説なのだということを評価していたが、全く同意する。「小説という表現形式を信じる力の強さと、想像力の勝利」(磯﨑憲一郎)とすると、たぶん持ち上げすぎで、発想のタイプは端的にマンガではないかと思う。ちょうど話の中で地球トンネル計画が立ち上がったのと同じ時期(戦後すぐ)の現実では、手塚治虫が『地底国の怪人』を発表しており、その中でも地球はあっさり貫通しているのだ。つまり、マンガ的想像力を戦後半世紀以上に渡る歴史的世界や主人公の事務仕事の退屈さ(小説的リアリズム)に落とし込む際に生じる深い間隙にこそ、魅力の源があって、問題は、そのことに作者がどれだけ自覚的なのかである。本作の面白さは、読者のツッコミを誘う「ボケ」の文体のうまさにも依存しているが、そのミクロな技術のみに手応えを感じていると、今後長く持たない懸念がある。

日上秀之「はんぷくするもの」(文藝)。震災後、仮設店舗で小さな商店を営む主人公のつよしは、ささいな日常生活の出来事を根源的な倫理の問いとして引き受け、そのいちいちに強迫神経症的に囚われてしまい、ぎこちなく振る舞うことしかできない。そこを論理的に語ろうとする際(あるいはそれが描写される際)の言葉足らず・・・・・な印象が、ふしぎなズレを生んで魅力となっている人物である。その「ズレ」の部分を選者の町田康がポジティヴに評価する説明はとても納得できるし、震災後の日常生活を舞台にして、「被災者として主題化され得ない人たち」を意識的に掬い上げる設定が、その意味を倍加しているのも理解できる。しかし、最終的な効果に対する作者の自覚が疑われる点で、今後の活動に不安が生じるタイプの作品でもある。例えば、友人の武田は、正義を過剰に語り、悪を行う人物だが、この種のアンビバレンスの体現者は、現代小説ではそれなりにステレオタイプでもある。それを話の筋に馴染ませようとする律儀な手つきが、妙なしょぼさのあるキャラの浮遊感を生んでおり、ヘタウマなユーモアの効果を醸し出している。また、借金の返済を怠り続けながら、必ず次に返済する旨は怠りなく電話してくる二重の道徳基準を持っている古木も、決してステレオタイプではないものの、似たような「ズレ」から来るいじらしさ・・・・・の魅力を湛えている。これをすべて計算尽くでやっているとしたら、技術というよりも度胸がすごい(新人賞を突破するのに選ぶスタイルではない)。やはり二作目待ちではないだろうか。

最後に、新人賞の発表がなかった二誌から一つずつ。金子薫「壺中に天あり獣あり」(群像)。ひかるは果てしない迷宮の中を彷徨っている。どこから来て、どこへ向かうのか、ただ無限の時間と蟻の巣のような空間からの脱出を試みている。やがて迷宮の一画に、人工の空や植物、そしてホテルのビルを丸々収容している巨大な部屋を見つけ出す。光は、懐疑や生の空しさの体現ともなっている迷宮への抵抗として、そこで没頭可能な生活を作り上げ、いつの日か迷宮を自壊させることを決意する。具体的には、そのホテルの支配人として従業員を集め、経営を始めるのである。結末の挫折は、ほぼ予測できる。光を取り巻く自然的環境のすべてが偽の機械仕掛けの代用物によって成立しており、結句、登場人物たちや光自身が自動人形なのではないのかという疑いが高じていく展開も予想通りである。既視感のある内容なのだ。ボルヘスを薄めて伸ばしたような、あるいは閉鎖空間を好んで描いた安部公房のようでもあるが、一品選ぶなら村上春樹の「街と、その不確かな壁」(一九八〇)が最も近い(一角獣も出てくるし)。光やヒロインの言海ことみといった命名も聖書的で半宗教的な含意がある点で、人生の寓意とも読めるし、また、自らの作家活動の出口なき彷徨の寓意とも読める。ちなみにホテルのような集合的居住空間はJ・アーヴィングや小川洋子などの同系の作家に使用されやすい定番の舞台である。新たな共同性を探る物語が作りやすいからだろう。何にせよ、本作には本作ならではの個性が薄い。結局、「文学史」に貢献するか、その中に存在を埋没させるか、がんばりどころではないかということである。さもなくば、マジメな文学の行く末は暗い。

木村紅美「わたしの拾った男」(文學界)。中高年のおっさんが少女を拾ってくる手のファンタジーはたまに見かける気もするが、その逆バージョン。ある種の〈鈍さ〉を生存の方途にしているような五〇代女性の危うさを描く作者の趣向がようやく馴染んできて、楽しめる小説だった。もう一言書きたかったのだが、紙幅が尽きた。
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