ルイ・アルチューセル 行方不明者の哲学 書評|市田 良彦(岩波書店)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年11月10日 / 新聞掲載日:2018年11月9日(第3264号)

理論の峰と経験の峰 
生涯にあった二つの峰を地続きにしている山を掘り返す 

ルイ・アルチューセル 行方不明者の哲学
著 者:市田 良彦
出版社:岩波書店
このエントリーをはてなブックマークに追加
 行方不明になるだけでは、既存の居場所に潜行するだけになる。だから、自ら行方不明であると公言し、権力にもそれを公認させなければならない。アルチュセールは生涯をかけて、そこまでは行った。行方不明者の存在証明までは行った。しかし、その自伝のタイトルが示すように、未来は長く続く、と告げて果てた。そこに「切断」を入れて、未来の「はじまり」を「あらしめる」こと、それが本書の課題だ。

権力は「私」に呼びかけ振り向かせて、主体化し従属化する。よく知られたアルチュセールの図式だ。しかし権力は、「私」の個体性を決してつかまえることはできない。その個体たるや、無からの創造を、空虚からのプロレタリアートの出現を、「来たるべき民衆」(ドゥルーズ)の到来を幻視しているからには、明らかに狂っており、絶対的に孤独である。「はじめに幻覚ありき」。そして、幻覚からすべてが出て来る。「どれほど馬鹿げた主張に思えようと」、すべてはそのように開始するのだ。

それを証明するために、著者は、あらん限りの着想と学識を注ぎ込み(ノート、備忘録、蔵書、黒板の図まで使われる!)、手練手管の限りを尽くしている(だから、読みやすい!)。

アルチュセールの生涯には、二つの峰がある。一つは、『マルクスのために』と『資本論を読む』。それは「閃光」であった。「マルクスに魅かれつつ共産党に帰依できない人々」には「福音」であった。アルチュセール派は「使徒」であった。もう一つは、高等師範学校の居室での妻殺害。「使徒」の本拠であったその部屋は「ブラックホール」になった。そこからは「黒い光」がいまも放たれている。一方に理論の峰、他方に経験の峰。一方に理論の光、他方に殺人の闇。大抵の者は「どちらかを無視する」。これに対し、著者は、二つの峰を地続きにしている山を掘り返す。そして、「アルチュセール的なスピノザ哲学」を掘り起こしていく。

著者は、手始めに「経験の構図」を掘り起こす。それは、有と無の「併存と移行の経験」である。「二」の併存が、先ず出来事としてある。次いで、両者を包括する「一」が、「ある」はずのものとして出現する。しかし、それは「ない」と思い知らされる。「ある」は、「ない」に移行する。そんな経験だ。こう読まずにはおれないだろう。革命の理論と革命の経験が併存した。輝ける理論と暗い経験が併存した。両者を包括する一なるものも出現した。しかし、その「ある」は瞬時に「ない」に移行した。あるいはまた、前衛党の理論と運動の経験が併存した。「政治的創設者の絶対的孤独」があり、「ポスト〈68年〉の理論的悲哀」があり…(これについては、『情況』本年秋号を参照)。

若きアルチュセールは、この「経験」を「辛い現実を生きぬく方法に転換する」。戦争捕虜となったアルチュセールは、脱走計画を立てながらも、捕虜生活を凌ぐ方法を模索した。そうだ、実際に脱走せずとも、収容者に脱走したと信じさせればよい。収容所の中で行方不明になればよい。「いる」と「いない」の併存は、枠内にいながら枠外に出る方法になる。収容所の枠、共産党の枠、社会主義の枠、そして資本主義の枠を「生きぬく方法」になる。

ところが、著者は、アルチュセールは「数カ月間、収容所内の診療施設にいたようだ」と指摘する。おそらく「鬱」による「入院」であった。収容所内施設での行方不明! さらに著者は、「闇」についても指摘する。アルチュセールは「免訴」によって逃走できたわけではない。「社会はみごとに彼をカクまえ、特別な「場所」を与えた」。そこは、刑務所と病院の間の場所である。〈中間施設〉での行方不明! こう読まずにはおれないだろう。行方不明者になった活動家たち、〈地域〉での行方不明者、〈大学〉での行方不明者! 「辛い現実を生きぬく方法」だけでは何かが足りないのだ。

アルチュセールの高等研究学位論文のヘーゲル論では、「無」から「有」が出て来る。ブルジョワ社会にプロレタリアートはいない。しかし、プロレタリアートは、無から出て来て、「世界そのもの」となる。とすると、無いことを恐れる必要はないにしても、どのように、と問わずにいられなくなる たまたま偶然に、以外の答えがありうるのか? おそらく理論的には「偶然性の必然性」までしか行けない。そこまでの詰め方、偶然を通して秩序が形成されるとするリベラリズムを退けながら詰め寄る仕方が問題になる。

アルチュセールの「偶然性唯物論」は晩年の思想と解されてきたが、著者は、それが「一九六〇年代以降のアルチュセールにずっとあったこと」、「一種のスピノザ論であったこと」を、「文献資料的に確認」していく。そのスリリングで緻密な読解をここで辿ることはできないが、それを経て引き出される結論は、絞りに絞れば次のようになる。

スピノザの著作の順序は、『知性改善論』、『神学政治論』、『エチカ』である。『エチカ』は公理で開始し第一種の認識から第三種の認識へ上昇する。では、『エチカ』そのものはいかに開始できたのか。銘記すべきは、『知性改善論』は未完に終わったことだ。では、『エチカ』は、未完が残した空虚から開始したのか。そうではあるが、それだけではない。銘記すべきは、『神学政治論』は、『エチカ』執筆を五年間も中断して書かれたことだ。とするなら、『神学政治論』の何ものかによって、『エチカ』は開始したはずだ。それは何か。

『知性改善論』は、「任意の「真なる認識」から出発」する。「任意の」、である。それは何か。『神学政治論』の「預言」なのである。その「預言」によって『エチカ』は開始できたのだ。認識は幻覚の強力な一撃で始まるのだ(ここを読んだとき、思わず「うわぁー」と声が出た)。「預言」とは何か。「目を開けて見る夢」、「並外れた活発な想像力」である。「はじめに幻覚ありき」。そこを起点に、『知性改善論』では「認識内並行」が証明され(精密な読解)、『エチカ』での「存在論的並行」に繋げられる(大胆な読解)。預言=幻覚=想像=映像=観念は、目前に「第一原因」ありと強力な感情をもって見ることだ。〈われわれ〉は最初から第一原因を見る。「われわれは実際(enim)、真なる観念を持っている」。そこから〈われわれ〉は踏み出し霊的自動機械となり、第三種の認識を経験する精神の眼となる。だから『エチカ』は開始できたのだ。

しかし、『エチカ』には、〈われわれ〉の個体性の存在論はない。国家なる個物の存在論もない。要するに、第三種の認識の範例がないのだ。しかし、著者は指摘する。『神学政治論』の預言を起源とする歴史こそが、その範例なのだ(ここでも「うわぁー」)。「はじめに幻覚ありき」。

いまや、イデオロギー論における主体化論に対する評価も定まってくる。「主体になったあと、呼びかけに応じた」個人=個体は、「いなくなる」。行方不明になる。だから、「主体の分裂」なる表現は間違えている。分裂は主体内部で起こりはしない。主体と非在・空虚の間で起こる。「私」の傍らに、「ない」がある。その「ない」かもしれぬものを「ある」かのように思わせる個人=個体の構成こそが、政治技術である。そして、著者は、アルチュセールとフーコーの密かな応接を掘り起こしながら、二人の政治技術論の展開を丁寧に読み解いていく。その主旨の一つは、こうなるだろう。

アルチュセールは、「フーコーの言う「狂人」」になろうとした。その狂人は預言者であり、個体性構成の政治技術者である。〈魂の技師〉である。そこに、理論の開始、歴史の起源がある。「政治の不確かな行方」を「変えうるポテンシャル」がある。それはどこまでも偶然性に付きまとわれる。しかし、その偶然性は構造的に必然的なのである。
この記事の中でご紹介した本
ルイ・アルチューセル 行方不明者の哲学/岩波書店
ルイ・アルチューセル 行方不明者の哲学
著 者:市田 良彦
出版社:岩波書店
以下のオンライン書店でご購入できます
「ルイ・アルチューセル 行方不明者の哲学」出版社のホームページはこちら
このエントリーをはてなブックマークに追加
小泉 義之 氏の関連記事
市田 良彦 氏の関連記事
読書人紙面掲載 書評のその他の記事
読書人紙面掲載 書評をもっと見る >
学問・人文 > 哲学・思想 > 西洋思想関連記事
西洋思想の関連記事をもっと見る >