てんてこまい 文学は日暮れて道遠し 書評|マイケル エメリック(五柳書院)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年11月10日 / 新聞掲載日:2018年11月9日(第3264号)

新たなる「世界文学」を模索する「或る者」

てんてこまい 文学は日暮れて道遠し
著 者:マイケル エメリック
出版社:五柳書院
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マイケル・エメリックとは何者なのであろうか。かれは久しぶりに日本から戻ったニューヨークで、タクシーの運転手に「どこの国の出身ですか」と尋ねられたという(マイケル・エメリックでございます)。本書はこれほどまでに英語と日本語両者に精通した日本文学研究者・翻訳家の書いた翻訳論・文学論・エッセイ等である。

本書は二〇〇六年一〇月から現在に至るまで、日本語で著してきた文章のほぼすべてであるという。雑多な集積とも見えるが、その底には、子どもの時に踏んだ蛞蝓の感触(足裏の感触)と共に存在する母国アメリカと、十七歳以来多くの時間、身を置いてきた日本との両者の重なり合いとずれの自覚と戸惑いが流れている。「翻訳」の語に暗示されているのはその具体的な現れなのであろう。二つの言語・文化の間に立つ著者の位置、そのような自分が受け入れられる世界のありよう、本著はその模索の書と言える。

本書中、日本文学研究者としての立場がもっとも発現されるのは、「Ⅲ「源氏物語」考」であるが、そこに通底するのも、「翻訳」とは何か、である。「原典が読める人間がヨーロッパにもアメリカにもまだ一人もいない『源氏物語』」が「言説の上で、世界文学になりかけたことがあった」(翻訳以前『源氏物語』が世界文学になった時)との指摘には、翻訳とは単に別の言葉に移し替えるということではなく、「言説」として立ち現れてくる、そうならざるを得ないことを示唆している。

また、「柳亭種彦『偐紫田舎源氏』の可能性」では、『田舎源氏』を「作り替えられる文化産物としての『源氏物語』の世界」として見ることの必要性を述べる。ここには、翻案のみならず、翻訳とは「作り替えられる文化産物」であるとの主張が隠されている。

そうであれば、多かれ少なかれ、現代語訳も同じであり、それは「世界文学という土俵において外国語訳と現代語訳の現状は交差するようなところがあるのです」(翻訳と現代語訳の交差点 世界文学としての『源氏物語』)との言で示されるように、「世界文学」という視野で捉え直すべき事象でもあるとするのである。言説、翻案、翻訳、現代語訳、そこに開放された文学が立ち現れ、空間、時間を超えた「世界文学」が成立する。「翻訳」の新たな意義づけがここに見出される。

ただし、そのような「世界文学」とは、はやりの「グローバル化」ではない。翻訳者について著者は「国家間の架け橋などではなく、言語や文化の独自性・自立性・同一性を前提とする国民国家という概念に憑いて離れない、愛すべき悪霊です」(マイケル・エメリックでございます)と言う。であるから、自分は、アメリカでの翻訳者のような「透明人間」ではなく、「翻訳家としての仕事を果たすために、一生懸命に透明な体を生身に近づけようと努力してきた」(透明人間、翻訳を語る)とも言うのである。

「翻訳」の難しさと深さがここにあるが、著者が本書でもっとも述べたいことは、もしかすると、「骨の髄まで「翻訳的」な日本語文学を書く」高橋源一郎の文学のごとき新たな「世界文学」の方向性の提示かも知れない。高橋の「日本語文学は、国境、言語の「壁」を取り壊し、国籍によって定義されない限りなく開かれた文学である」(おかえりなさい、ミスター高橋)とする著者は、アメリカと日本に根を生やしながら、新たなる「世界文学」を模索する「或る者」なのかも知れない。
この記事の中でご紹介した本
てんてこまい 文学は日暮れて道遠し/五柳書院
てんてこまい 文学は日暮れて道遠し
著 者:マイケル エメリック
出版社:五柳書院
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「てんてこまい 文学は日暮れて道遠し」出版社のホームページはこちら
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