インヴィジブル 書評|ポール・オースター(新潮社 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年11月10日 / 新聞掲載日:2018年11月9日(第3264号)

不可視の果てにある「真実」 
再読するたびに新たな面が浮かび上がる

インヴィジブル
著 者:ポール・オースター
翻訳者:柴田 元幸
出版社:新潮社
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本書は、アメリカを代表する現代作家ポール・オースターが二〇〇九年に発表した長編小説の邦訳である。

物語は一九六七年春、ニューヨークで幕を開ける。コロンビア大学文学部で学ぶ詩人志望のアダム・ウォーカーは、謎の人物ルドルフ・ボルンから文芸雑誌創刊の話を持ち掛けられる。半信半疑ながらも、千載一遇のチャンスを逃すまいと雑誌の構想を練るウォーカー。しかし、ある事件をきっかけにボルンの狂暴な一面を知り、自らの良心に従ってボルンの申し出を辞退するのであった……。

ここまで読むと、純粋に文学を志す青年の夢と挫折を描いた物語のように思える。しかしそこはオースター、話はそう単純ではない。第二章では時間が一気に四十年進み、小説本体と思われたウォーカー青年の物語が、実は晩年を迎えたウォーカーによる未完の回顧録の一部であることが判明する。以降、ウォーカーの友人である作家が回顧録の原稿を読む、あるいは再構成するという設定で小説は展開する。原稿で明かされる数々の「真実」――最愛の姉との禁断の愛、留学先パリでの生活、ボルンとの再会とその結末――。その一つ一つが細部まで語られ、奇妙な現実味を帯びている。「奇妙な」と書いたのは、すべてのエピソードがノンフィクションのようでありながら、同時にまったくの虚構とも読めるからだ。ウォーカーも自身の回顧録について、「君がどっちだろうと思っているかもしれないから言い添えると、これはフィクションではない」と断っている。

この言葉は本書全体を象徴しているように聞こえる。それまで語られていた話が別の人物によって否定されたり、語り手が突如として交代したり、ということが作中では何度も起こる。「インヴィジブル」(invisible, 目に見えない、不可視の)というタイトルが示唆するとおり、物語の全体像は曖昧だ。読者はどの人物がどこまで「真実」を語っているのかと困惑し、霧の中をさまよっているような気分になるだろう。しかしながら、混乱して立ちすくむような感覚には陥らない。それどころか、巧みな語りの層を掘り進んで行けば「真実」にたどり着けるのではないかと、次から次へとページをめくってしまうのだ。また、謎の人物ボルンや、ウォーカーと姉との関係は、ある種のグロテスクさをたたえつつも読者を引きつける。これは、複雑な物語をストレートな英語で書くオースターの筆力の成せる技といえよう。往年のオースターファンにも、初めてオースター作品に触れるという読者にも、ぜひ一読をお勧めする。いや、「一読」とは言わずに二読、三読すれば、その度に小説の新たな面が浮かび上がり、「インヴィジブル」の果てにある「真実」を見出せるかもしれない。

ところで、「インヴィジブル」という単語は作中で七回登場するが、作者が意図的に用いていることを示すため、訳者・柴田元幸は訳語をすべて「不可視」で統一したという。ただ、七つの「不可視」はあくまでさりげなく用いられているという印象を受けた。「インヴィジブル」という語そのものですらも「不可視」になるよう、こっそりと滑り込ませたのではないかと思えるほどに。

現実と虚構の境目が曖昧で、「不可視」であるがゆえに、本書から受ける印象は読む人によって大きく異なるだろう。読者がそれぞれの解釈を加えていくことではじめて、その人だけの小説『インヴィジブル』が完成するのではないか。
この記事の中でご紹介した本
インヴィジブル/新潮社
インヴィジブル
著 者:ポール・オースター
翻訳者:柴田 元幸
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
「インヴィジブル」出版社のホームページはこちら
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