改組新第三回日展開催に寄せて➁ |書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年11月4日 / 新聞掲載日:2016年11月4日(第3163号)

改組新第三回日展開催に寄せて➁ 

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二〇一六年一〇月二八日から一二月四日まで国立新美術館で「改組新第三回日展」が開催される。日展は日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書など約三〇〇〇点の新作・入選作が全国から集まり一堂に展示される。本紙では「改組新第三回日展開催に寄せて」と題し全四回で理事長はじめ日展作家のインタビューを掲載する。文責は美術ライターの松井文恵氏にお願いした。 (編集部)


改組新第3回日展
会期:10月28日(金)~12月4日(日)
時間:10時~18時(入場は17時30分まで)
場所:国立新美術館(港区六本木7-22-2)
入場料:一般1200円/休館日:火曜日 
※11月12日(土)は「日展の日」として入場無料
洋画家 塗師祥一郎氏インタビュー

小学校五年生で 油絵を始める

去る9月21日、惜しくも他界された、日本の風景画の名手、洋画家塗師祥一郎氏。6月の終わりに埼玉のご自宅でお話を伺った。

塗師祥一郎さんは石川県小松に生まれ、その年に父親の仕事の関係で大宮へ引っ越した。父親は窯を築き陶芸を生業としていた。油絵は小学校の担任の先生の影響で、小学校五年から描いていた。絵描きになりたかったという兵役から帰ってきた若い先生で、父の焼き物にも興味をもって家に遊びにみえ、かわいがってもらったという。戦時中で材料そのものがない時代、質の良いペンキを調達してきて併用しながら油絵らしきものを描いていた。

その後母親が結核になり故郷の小松に戻ることになった。一年程で金沢へ移る。
金沢の中学時代は学校が終わると自分で絵を勉強していた。「終戦後はいろいろ進駐軍から物資が入ってきて、南京袋があったんです。麻のごつい袋でそれを伸ばしてキャンバスにして、自分なりに絵は描いていました」そして十五歳のときに石川県を中心とした現代美術展に応募して賞をいただく。

金沢美術工芸専門学校(現金沢美大)に進み、昭和二十七年大学三年のときに日展に挑戦する。金沢の兼六園から町を見下ろした風景を描いた作品で初入選。その明くる年にある展覧会に挑戦した時は人物と風景と両方を出した。人物を出したのはその一回だけだった。というのも、「それでは日展に出してみようと言うことで学生時代に生意気な感じで人物をデフォルメしたような絵を描いて、大学の教授だった高光一也先生に見せたら『こんな絵出したってダメだよ。もっと素直になって出直し』と怒られました」それで開き直って、キャンバスを公園に持ち込んで、現場で描いた。最初の年は五十号までだったのだ。写生をしてそれを教授に持っていくと、「これならいい。挑戦してみたら」ということで入選に結びついた。今はスケッチをしてアトリエ制作が主であるが、当時は現場で当たり前のように描いていた。

塗師祥一郎《長坂雪景》2012年第44回日展出品作品
美大最後の年には日展の小絲源太郎先生の集中講義があったが、卒業後、大宮へ戻ってから先生との再会がある。

田園調布の家をお訪ねすることになり恐る恐る先生の所に遊びに行った。
「先生は途中の絵を見せて『この絵、どう思う?』と聞かれるのです。黙っていると『何にも言うことないなら帰れ』。それが第一日目の強烈な印象でした。後々我々小絲門下の人は、先輩だろうが先生の絵だろうが意見を言いあえる仲間のように育ってきたところに良さがあるのでしょう。自由に話せるのです。そういう意味では幸せでした」

大学を出て大宮で教員になった。
「教員二年目になって日展に落ちて、これは絵を一生懸命やらなくてはだめだと反省し、思い切って教員を辞めてしまったのです。辞めて一年たったら、大宮で新たな高校の立ち上げがあり、一年間だけ非常勤講師で勤め、合計三年です。そこで辞めたから良かったのです。日展を落ちた結果、それから努力をしていったわけです」
旅の雪景色に魅了されて

塗師祥一郎《会津浅春》2001年第33回日展出品作品
街・工場・採土場などをモチーフに五年ほどの周期で制作していた。特選は初入選から十年ほど経って、会津の雪景色の作品だった。雪景色を描き出して四十五年、そのきっかけはある旅に始まる。

初入選から十余年、制作に行き詰まりを感じたことから会津へと旅に出た。三十五歳の時だ。途中下車を繰り返しながらゆっくりと何を求める目的もなく、スケッチブックを手に歩いた。

久しぶりの雪国で、白一色、越後平野の畔に建ち並ぶ稲架掛けの榛の木が印象的に目にうつる。三条駅で下車、木々の姿をスケッチし、雪の中を歩き回った。その時の感動は今も忘れられないという。今はもう見ることができない光景。そのあと阿賀野川流域の風景、会津の里であった山里の民家や雪山、落葉樹林の魅力に感動。雪によって生まれた造形に魅了されたのだ。今まで感じなかった雪の面白さをひしひしと感じた。「雪のつくりだす色面、空間が絵作りの中で非常に面白く効果として出せると思い、絵作りの中で雪を利用するのが最初でしたが、雪の中を歩いて行くと雪の中の生活をある程度体験しているので、その思い入れが入ってきて、雪の中にどっぷりつかってしまったというのが現実なのです」

自然の風景に感じられるようには描くが、画面の構成を意識しながら描いている。それまで、造形的なことをいろいろ研鑽してきたものをベースに山や雪原を構成している。

風景を描く場合、天候との兼ね合いがあり、がっかりすることもかなり多いという。しかし「白を描くのはけっこう楽しいのです」とにっこり。

その風景をどのように絵にしていくか。風景を見つけることも大事だが、その顔も天候や時間によって変わり、いろいろな表情を見せてくれる。時間や季節をどこで固定させるかが非常に大事だと語る。
「一つの風景でも季節と時間でずいぶん変わるのでそのときの出会いにうまく結びついてくれると自分で想像できなかったものが見えてくる、それは風景を描いていくなかで楽しみでもあります」
「若い時はがむしゃらに進んで行くことが大事だと思うのです。理屈で考えていくとどうしても絵が沈んできてしまう。だから向かっていく姿勢を大事にし、反面、常に古典のものをしっかり見ていくこと。そこには必ずいろいろ教えてくれるものがあります」

ヨーロッパに初めて行ったとき、憧れていた作家の作品と同じ風景が現実にあり、正直に描いているのだとわかった。それを感じたとたん、「やっぱりおれは日本の風景を描こう」と強く思ったという。
「最後まで日本の風景にこだわっていきたいと思うのですが、できるだけ風景を省略化するというか、風景のエキスみたいなものが表現できればという気持ちでいます」


彫刻家 中村晋也氏インタビュー

戦争の苦しみを乗り越えて

彫刻ひとすじに七十年余り。奈良、薬師寺の釈迦八相像の制作を進める、彫刻家で文化勲章受章者の中村晋也さんを、鹿児島の中村晋也美術館に訪ねた。

中村さんは三重県亀山市生まれ。神戸中学校を経て東京高等師範学校に進み、彫刻に出会った。
「最初は絵をやるつもりでした。でも、その頃は食べるのが先で、絵の具を買うなんてとんでもないことです。粘土さえあれば自分の修練をするためには何度でもできるわけです。それがきっかけです。やっぱり人間は最高に追い詰められるといろんなことを勉強するものです」

学生時代には兵隊に行くことになる。
「昨日までいた人がいなくなるのが戦争です。国内では空襲があり、離れて見ると天が焦げて見える。叫び声が今でも耳に残っています。戦争の中にいるとこっちも必死ですから辛いとか苦しいとか全然感じない。みんな超越している。だからひとつの浮遊物体といいましょうか。暑くもなければ痛くもなければ何でもない。感覚が麻痺したなかで昼も夜も空気を吸いながら泳いでいる。そういう感じですね」

戦後、大学に戻るために、いつ着くかわからない東京行きの汽車に乗り、着いた東京は焼け野原だった。
「その頃は、金もなければ食べる物もない本当にひどい時代で、よくみんな生き延びたもんだと思います。かなり厳しいことがあっても私たち以上の年代の人は文句を言わない。苦しいことは何でも受け入れられる。そういう訓練ができた時代だと思う。人様のことも一生懸命考ました」

その後、日展の彫刻家吉田三郎先生に手ほどきを受けることになる。
《豊臣秀吉公》 2016年改組新第3回日展出品作品
ある日、大学の研究室のそばを通ったときに「彫刻の吉田先生はいい先生だから」と話している声を耳にして、思い立ってすぐに先生の住所をつきとめました。田端にいらっしゃるという番地を頼りに、手ぶらで出かけて『先生、彫刻を教えてくれませんか』と言って話し込んだことを今も覚えています」大学の授業はあまり出ずに、吉田先生のもとで学ぶ日々が始まった。
卒業時には文部省の辞令で、新設された鹿児島大学の文部教官として赴任する。

ストレートに相手に入ってくる造形

四十歳のときから、二回にわたってフランスに留学。アペル・フェノサという彫刻家と出会ったのが転機となった。
「自分のなかに新しい自分を発見するというと大げさに聞こえるかもしれませんが、自分が気づいていなかったことを自然から教えられる、それを、身をもって体験したということかもしれません。ピカソの弟子であるフェノサは半分詩人みたいでした。『彫刻というのは詩でなければいけない』とよく言っていました」

一九七九年には鹿児島市中心部に大久保利通像を制作し、中村さんの名が一躍広まった。

彫刻に対しての考え方は、「今でも勉強ですから、彫刻をいつ勉強したかというのはないのですが、一点一点がその次につながるように、自分自身が覚悟して作るかどうかだと思うんです」

制作に終わりというものはない。型をとる直前までも真剣に続け、「いつまでも一生でも作品をいじっていたいです」と語る。
若い彫刻家に対しては「若い方々がどんな考えを持っているかわかりません。先取りしてこういう時代だからこう行くという若者は、それはそれで立派だと思う。
先生方も親切な方がたくさんいらっしゃいますので、その人が一人前になるように、いろんな方向を考えてくださるのではないでしょうか」

これまで数々の戦没者慰霊碑を作った。制作にあたりいろいろな慰霊碑を見て回ったが、沖縄で出会った「魂魄の塔」は何の飾りもなく文字が書かれただけの石碑だが忘れられないという。「ぱっとストレートに相手に入ってくる造形ができれば勝ちなんです」

中村晋也《ミゼレーレ》(部分)
その表現がストレートに多くの人の心を打った作品の代表ともいえるのが、神戸の大震災をきっかけに作られた祈りを捧げる像「ミゼレーレ」ではないだろうか。フランスに留学していた頃から宗教的なものに関心があったという。
「何でもそうですが、世の中は予想内と予想外と大きく二つに分けられると思います。予想外のことは、これで人間よく耐えたなというのがあります。やはりそこには神様か仏様かは別として大自然からのお助けがあったのだなと、それが私にミゼレーレの仕事をさせる根本になってまいりました」

二〇一五年六月、釈迦八相像のうち四面のブロンズ像が完成し、薬師寺西塔に納めた。釈迦が悟りを開いた成道、右手を軽く地面にふれ大地の女神を呼び寄せた場面をはじめとする四シーン。構想から十年かけて取り組む大プロジェクトである。
「釈迦の八相は仏教のなかで手順や物語が構築されていますが、釈迦というのは真ん中にいらっしゃってどこからでも眺めることができます。後ろ姿、正面、横と見方が違ってくる。自分はどういうお釈迦様を引き出して表現するか。ただお釈迦様は何千年も昔の話なので、皆さんが研究なさった本から教えていただいて構成をしていくことになると思います」

そしてこの仕事は今から千年後も残る。「もっと残る。ずっと残るだろうというのは、やっぱり怖いです。怖いから緊張感があるのかもしれません」常に覚悟して制作に臨む。
次の仕事は、歴史物を考えている。
「一生懸命にもう一度中学生になったように歴史の勉強から始めてみたりいたします。今度は日本武尊、弟橘媛、物語は上手に作ってあって、弟橘媛が海の中に入っていったらあっという間に波が静まる。弟橘媛はどんな気持ちで入水したのだろう、どうやってあの船の舳先から飛び込めたのだろう、と考え出すと終わりがないんです」次々と沸き起こるシーン。次の作品への思いに中村さんの瞳は輝いている。
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