ダンサーは消える 書評|室野井 洋子(新宿書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年11月17日 / 新聞掲載日:2018年11月16日(第3265号)

稀な観察眼と文体を持ったひとりのエッセイスト/ ダンサー

ダンサーは消える
著 者:室野井 洋子
出版社:新宿書房
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 ダンサーであり、整体師だった著者の遺稿集が本書だ。二〇一七年に五八歳で亡くなっている。著者は矢川澄子と親しく、新宿書房などで編集者として働いた経歴も持つという。本書の文体は、それらすべてのキャリアが十全に活かされたものではないだろうか。整体の分野で学んだ「動法」という、日本古来の身体の動きを探求するワークショップでの活動を続けながら綴られた言葉を、「舞・稽古帖」という章で読むことができる。「自分の気配を消して歩く/等身大で歩く/もう一人たずさえるように歩く」、「立位よりあぐらへ/いくつ、どのように動作すれば/ゆるぎなきあぐらをかいて/終わることができるか」、「からだが澄んでゆく声を出しつづける」。自らの意識とその状態を観察することを「内観」というが、著者はここで、からだを内観している。その観察を記したのが、この章である。

また動法には、能楽や茶の湯、剣術などの身体所作が関わるが、それらの身ぶりの要素をつき詰めると、俳諧の季語に象徴される、日本固有の季節感覚の問題にゆきあたるだろう。本書には「季節」という章もあって、「季節のからだから、おのずと湧きいづる動きがある。それは季節によってさまざまな形をなし、たとえ同じ軌跡をたどる動きであってもその気配はあきらかに変わってゆく」という一節が読める。さらに「余暇暦」という章では、「一年の余暇を踊る行の手引き」という案内のもと、十二の月ごとに著者が内観した季節感が語られるのも面白い。たとえば、「四月/ひとりで歩く」、「七月/すきまに生まれる」、「十月/窓辺にて正気づくわたし」などである。

こんな具合に、独特の感受装置を備えた著者にとっては、日々の行住坐臥が観察と分析の対象になるはずだ。茶の湯の稽古、裁縫、着付けといった伝統文化に関わるものは無論のこと、呼吸することや待つこと、ジャンケンの身ぶり、ひとに呼びかけること、そんなものすべてがエッセイの材料なのである。本書を読みながら、ここに稀な観察眼と文体を持ったひとりのエッセイストが生まれつつあるな、という実感があった。

だが、書名にも明らかなように、著者はダンサーであって、本書に残された身体論、ダンス論には深く傾聴すべきものがある。「ダンスは残りません。ダンサーはその後もしっかりと生きつづけているでしょうが、ダンスの動きそのものは一瞬にして生まれ死ぬまぼろしのようなものです。」「ダンスの動きもまた、感動の力によってつくられてゆきます。感覚が動かされることなく踊ることはできなし、舞台に立つこともできません。/このような動かされた感覚の連鎖が、一瞬にして消えるはずの身体の動きを無形の形として生かしつづけ、単なる肉の動きをダンスにするのだと思います。」著者のダンス観の原点といえよう。

略歴によると、若いころより舞踏系のダンスを学び、かつては笠井叡の教えを受けたこともあるらしい。本書には土方巽の名前も出てくるわけだから、舞踏の世界には一貫して関心を持ち続けたようだ。ただ、「舞・稽古帖」のなかに、「ダンスの多くは「動かす身体」と「動く身体」の闘いである」という一文があるように、舞踏系のダンスに特有の方法論である、即自的な肉の露出には批判的だろう。動法で学んだものをそのダンスにどう活かしたのか。わたしは、著者のダンスの舞台に一度も触れる機会はなかった。ひとりのエッセイストを失ったこととともに、ひとりのダンサーがこの世から消えたことをまことに残念に思う。(編集=高橋幾郎・福間恵子)
この記事の中でご紹介した本
ダンサーは消える/新宿書房
ダンサーは消える
著 者:室野井 洋子
出版社:新宿書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「ダンサーは消える」出版社のホームページはこちら
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