穴あきエフの初恋祭り 書評|多和田 葉子(文藝春秋 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年11月24日 / 新聞掲載日:2018年11月23日(第3266号)

読み続けられることの僥倖
覚束ない場所に放り出された人間のおかしみを掬う

穴あきエフの初恋祭り
著 者:多和田 葉子
出版社:文藝春秋
このエントリーをはてなブックマークに追加
何気なく新聞を読んでいたら、突然、文字が文字に見えなくなった。それは「老」という漢字だった。眼は確かに文字をとらえているのに、脳が「老」と認識しない。その見たこともないカタチのものは、やがて「土」「ノ」「ヒ」とバラバラに解体されて飛んでいき、あやふやで不確かな気持ち悪さだけが残された。

本来は、「全体を認識する能力の低下」を意味する心理学用語である「ゲシュタルト(形態・姿)崩壊」を起こすのは日本語だけに限らず、視覚的なものにもとどまらない。耳で聞いた言葉や音が脳でうまく変換されず、意味や形を探していつまでも宙を彷徨っているような時もある。

多和田葉子の『穴あきエフの初恋祭り』を読んでいて、これはまさにゲシュタルト崩壊の倉庫、いや宝庫、言語と認識のズレによって生じた覚束ない場所に放り出された人間のおかしみを巣食う、もとい、掬う小説集だと感じた。

アメリカから十年ぶりに日本に戻った男が、成り行きで身を寄せた元クラスメートの女性とちぐはぐなコミュニケーションを演じる、邯鄲の夢的「胡蝶、カリフォルニアに舞う」。従兄弟の女性との不毛な文通そのものを作中作として虚構化しつつも、現実世界でも生じている齟齬を入れ子のように見せる「文通」。郵便という言葉が滅びてしまった世界における配達の困難さを描く「おと・どけ・もの」。

それから、電話やインターネット、Wi-Fi、あるいはデバイス、モデム、ルーター、そういった「接続装置」が擬人化された世界で味わわされる切断の孤独をシュールに描く「てんてんはんそく」。これは「輾転反側」のことで、「悩みや心配のため眠れず、なんども寝返りを打つこと」という意味だが、“穴エフ”を読む身からすると、比喩の半分も読み解けず見悶える姿を見透かされているようでもある。

表題作は、ウクライナの首都・キエフを舞台に、戦火や共産圏によってかつて破壊された記憶を持つ街が、今度は資本主義によって生活を奪われる皮肉を描いたやや毛色の異なる一作だが、「穴あきエフ」とはもしかしたら、「アナーキー+キエフ」であると同時に、ひとつ前の短篇「ミス転換の不思議な赤」に出てくる女子高生「緋雁(ひかり)」のことかもしれない。

「魂」ならぬ「玉C」が、身体から「不和っと」飛び去り、床に昏倒して血を流した緋雁。こんな記述がある。

「緋雁は意識のどこかに穴があいているのかもしれない。どんな船でもいつかは沈む。でも穴があいている船はすぐに沈んでしまう。だから修理のためにドックに入ったのだろう。穴があったら血がこぼれてしまう。穴を塞がなければ血がどんどん流れてしまう。どうにかして出血を止めないと。」

文字を追う眼は文字からはぐれ、意味を手繰り寄せようとする手から意味はさらさらとこぼれ落ちる。こちらの意識の穴からも血が流れているのに、その穴が探せない。

ドアをノックすると聞こえる「仮眠」の声。「中心部で混線して、無精髭のように見える」「募」という文字。「来ず罪」と誤変換された「小包」は永遠に届かず、「遠」という漢字は「猿がバイクに乗っているよう」で、「簡単には行けない、あるいは、言葉を通してしか行き着けないという意味なのかも」というひとつの境地を示す。

文学においてクレオールを体現しようと試みる越境文学者・多和田葉子は、言葉の解体、剪定、再構築を繰り返しながら、他者とのミスコミュニケーション、あるいはディスコミュニケーション、その“わからなさ”の襞の間に比喩や言葉遊びを巧みにしのばせ、シニフィアンとシニフィエの隙間で呼吸しているモチーフの種を物語の器に盛ってみせるのだ。
「目の前に立った人間を丸ごととらえることができなくて、ホクロとかボタンとかシミしか見えなくなって、つながりのない細部から細部へと視線が目移りする。これらの部品をうまく組み合わせたら一人の人間ができるんだろうか。」

読むごとに崩れは広がり、一向に穴は塞がらない。だからこそ、この一冊は読み続けられることの僥倖に満ちている。
この記事の中でご紹介した本
穴あきエフの初恋祭り /文藝春秋
穴あきエフの初恋祭り
著 者:多和田 葉子
出版社:文藝春秋
以下のオンライン書店でご購入できます
「穴あきエフの初恋祭り 」出版社のホームページはこちら
このエントリーをはてなブックマークに追加
八木 寧子 氏の関連記事
多和田 葉子 氏の関連記事
読書人紙面掲載 書評のその他の記事
読書人紙面掲載 書評をもっと見る >
文学 > 日本文学関連記事
日本文学の関連記事をもっと見る >