フィフティ・ピープル 書評|チョン セラン(亜紀書房 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年11月24日 / 新聞掲載日:2018年11月23日(第3266号)

移り変わろうとする時代を生きる人々の流動性を巧みに描く

フィフティ・ピープル
著 者:チョン セラン
翻訳者:斎藤 真理子
出版社:亜紀書房
このエントリーをはてなブックマークに追加
韓国では、新しい文学の風が吹き込んでいる。国家、性別、家などの言葉を、またその価値を、疑うことなく自明なものとして受け入れられていた時代が終わろうとし、多くの書き手が、到来する新しい時代をどのように描こうか、と苦心している。チョン・セランもその一人である。

本書は、ソウル近郊のある大学病院とその周辺を舞台に、五十の登場人物たちの人間模様を描いた連作短編小説集。登場人物は、医師、看護師、患者、警備員、主婦、ドクターヘリの操縦士、学生とさまざまで、年齢も背負っている背景も問題もさまざまだ。

元カレにケーキナイフで首を切られて救急室に運ばれてきたスンヒ。使いもしないケーキナイフを捨てておけばよかったと自分を責めるチョ・ヤンソン。シンクホールに落ちる事故に遭い入院した、ベーグル屋で働くアルバイトのスンヒに好感を抱いているぺ・ユンナ。そんな彼女を心配する姑のチェ・エソンと夫のイ・ファニ。登場人物たちは、このように直接的な関係を持つこともあれば、ただ偶然その場に居合わせていただけであったり、見知らぬ人としてふらっと現れたりすることもある。

登場人物たちは、こうして直接的、間接的に関係を持ちながら物語を紡いでいく。と言っても、この小説に、全体を統括するような「物語」はない。作中には、医療現場の問題、非正規労働、LGBT、ドメスティックバイオレンスなど、現代社会のさまざまな問題が描かれるが、それらがひとつの大きな物語に収斂され、事件に発展していくこともない。著者は、複数の人間の多様なエピソードを、複雑なまま描いているのだ。また、五十人によるそれぞれの語りは、特定の登場人物の像を強化する方向に向かわない。むしろ、各人物をひとつの視点だけで捉えることを拒み、揺るぎない存在として決定づけてしまうことを禁ずるのだ。

本作の構想が生まれたのが「渋谷のスクランブル交差点をビルの上から眺めているとき」(訳者あとがき)だというのは、重要なポイントである。スクランブル交差点の歩行者たちを、私たちは「渋谷系」などと一般化することができない。彼らはあまりにも多様で、その多様さを受け止められる言葉を私たちは知らない。作品の舞台となる大学病院も、いわばスクランブル交差点なのだ。特定の層を限定せず、誰にでも開かれている場所。人はこの場所を訪ね、また去っていく。ただ通り過ぎる人もいれば、ただ近くで暮らしている人もいる。実際、病院が舞台と言っていいだろうかと迷うぐらいの、その程度の存在感しか与えられていないのだ。舞台としての「特権」がまったく与えられていない。と言うのは、最終章「そして、みんなが」では、登場人物たちが偶然に居合わせる舞台としての機能を、映画館にあっさりと手渡してしまうからだ。この映画館では、本書で最も事件性のあることが起きるのだが、しかし、事が済めば、人々はまた散り散りになり、「わずかな人だけが」「あの夜を思い出す」。集い、生成し、そしてまた分離する。本書にあるのはその運動だけ。

著者は、単一の枠組みを作り出す装置としての「小説(NOVEL)」を解体しながら、移り変わろうとする時代を生きる人々の流動性を巧みに描いている。この小説を読むわれわれもまた、スクランブル交差点のある一瞬を構成する誰かなのである。(斎藤真理子訳)
この記事の中でご紹介した本
フィフティ・ピープル/亜紀書房
フィフティ・ピープル
著 者:チョン セラン
翻訳者:斎藤 真理子
出版社:亜紀書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「フィフティ・ピープル」出版社のホームページはこちら
このエントリーをはてなブックマークに追加
すんみ 氏の関連記事
読書人紙面掲載 書評のその他の記事
読書人紙面掲載 書評をもっと見る >
文学 > 外国文学関連記事
外国文学の関連記事をもっと見る >