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更新日:2018年11月27日 / 新聞掲載日:2018年11月23日(第3266号)

無線談話室 義太夫を語って居るところ

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これは九月七日東京星製薬株式会社楼上で試験せられたもので、離れた別室で送話機に向い義太夫を吹き込むのである。するとそれが他室で聞かれる。此の談話室の設備が一般の実用にまで普及せられ、我々は自分の家に居ながら面白い音楽やお話しなどを聞き得るのは近き将来である。(『写真通信』大正十一年十月号)

来年、携帯電話の料金値下げが実現しそうだ。

現代日本の社会で「生きるための必需品」といってもよいほど普及している携帯電話の創成期、これは日本で「無線電話」の実用化が始まる兆しを伝えた写真だ。

大正十一(一九二二)年九月七日に行われた「無線電話の実験風景」、場所は東京の星製薬楼上とあるので、京橋に在った七階建ての本社ビルと思われるが、そこに設けられた「無線電話談話室」での一コマだった。

無線電話はアメリカでいち早く実用化が始まったが、日本でも海軍などが研究をすすめていた。

『写真通信』大正十一年十月号は、見開き二ページに実験風景を掲載、無線で音を送る情景と、別室に設置した別の機械でこの音を聞いている様子が掲載されている。これは義太夫を語る「送り手」の写真、大型メガホンに音を吹き込む装置が珍しい。

大きな装置を二つ作らなければ音声を送って受けることができなかった無線電話は、いまでは手のひらに収まるスマートフォンにまで進化して、地球の裏側とも即座に通話できるアイテム。これが、スマホの「原型」だったとは、人類の発明探究のスピードに目がくらむ思いだ。

写真説明に「義太夫を吹き込む」とあるが、三味線を弾き語る「老女」は、往年の娘義太夫で人気を馳せた太夫なのか、過去のアイドルと未来を告げる新製品との組み合わせは、まるで新旧文化の狭間で一瞬きらめいた大正という時代を象徴しているかのようだ。

製薬会社がどうして「無線電話談話室」を作ったのだろう。創業者の星一、異才の足跡を追えば、「無線電話」への思い入れは不思議ではない。

星一は、明治六(一八七三)年に現在のいわき市に生まれた。米国コロンビア大学を卒業して米国で新聞を発行、帰国後に衆議院議員となり、明治四十四年に星製薬を設立した。

五反田に画期的な近代的製薬工場を建設し、「東洋の製薬王」と呼ばれた。さらに現在の星薬科大学を創立したが、政争を背景にしたアヘンをめぐる疑獄事件に巻き込まれて、会社は破産する。

同郷の野口英世から後藤新平、広田弘毅などの政治家や科学者など幅広い交遊があり、斬新な発想を経営に取り入れ、あるいは第一次大戦の敗戦国ドイツへの経済的支援まで、本業を離れた活動も知られている。

明治から大正期にかけて、日本を飛び出してそのダイナミックな経験を生かし、帰国後に「種をまいた」人物のなかでも、星一はとりわけ魅力的である。

SF作家の星新一は息子であり、父親の評伝『明治・父・アメリカ』『人民は弱し官吏は強し』を書いたが、そのなかに大正十一年八月末から社員四人を連れて外遊したとある。ちょうど、この「無線電話」の実験をしている時期、星一は日本にいなかったのだ。

大戦の疲れがのこるヨーロッパから、好景気に沸くアメリカに渡り、野口英世の仲介で発明王エジソンと会った。七十七歳になっていたエジソンだが、「私は人類のために新しい富、新しい道具、新しい産業を創造しようとしている」と情熱的に語って、星を感激させたという。もし、この「無線電話」の実験に星自ら立ち会っていたら、どんなアイデアが生まれたことだろうかと膨らむ想像を重ねてしまう一枚なのだ。
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