上妻世海×奥野克巳×古谷利裕 別の身体を、新しい「制作」を 『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ) を読む|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年11月30日 / 新聞掲載日:2018年11月30日(第3267号)

上妻世海×奥野克巳×古谷利裕
別の身体を、新しい「制作」を
『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ) を読む

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執筆活動やキュレーション等で活躍中の上妻世海氏が『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ)を刊行した。このところ書店に並んでいるフィルムで覆われた真っ赤な本が、気になっていた人もいるのではないだろうか。上妻氏のいう「制作」とは何なのか、刊行を機に、文化人類学者の奥野克巳氏と、画家・評論家の古谷利裕氏との鼎談をお願いした。既に本書を手に入れている方、読み終えた方、上妻氏のトークイベント等に参加した方もいると思うが、これは決して終わらない、未完の始まりの一冊。ぜひ、それぞれの立場からこの鼎談を楽しんで、各々の「制作」に繋げていただければ、などと思う。      (編集部)
第1回
❖多自然主義と往還運動


奥野 克巳氏
奥野 
 『制作へ』は、上妻さんの初期の論考を集めた一冊です。ベースにあるのは芸術論ですが、哲学、人類学、現代思想、ほかあらゆる学問が射程に入り、非常に拡張性のある議論となっています。「制作的空間」という言葉を立ち上げ、我々の日常を制作すること、あるいは学問を制作することに切り込んでいる。
私自身は専門が人類学なので、人類学において上妻さんの問題提起をどう捉えるかに関心があります。その観点からいうと、人類学もやはり制作に関わってきました。
人類学は、百年程前のブロニスラウ・マリノフスキーの頃から制度化されて以降、民族誌を書くことを中心化し、つまり制作をしてきました。しかし二十世紀の大部分の文化人類学は、上妻さんの言葉でいうところの、「世界を安定的な定点から観察し消費する」という「不当に特権的な場所」に立つものでした。
その後、ポストモダンの人類学ではフィールドワークした先の現地の人々が「参加」することが視野に入ってきました。二十世紀末から四半世紀にわたって、人類学は、「消費」「参加」の立場から何とか脱出しようともがいてきたのです。
そこからようやく脱け出したときに現われたのが、上妻さんも取り上げている、多自然主義的な人類学ですが、それがうまくいっているかというと、そうでもないのかもしれません。上妻さんの射程は、人類学の現状と比べて、数歩先をいっている、と思うのです。
上妻さんの議論を、人類学を中心とした人文知の中で評価すれば、それはやはり多自然主義の視座です。
本書の中の「消費から参加へ、そして制作へ」を読むと、「消費」「参加」「制作」の三つが、構造的にどう連関しているかがよく分かります。目指されているのは、「制作的空間」にいかに降りていくのか、ということ。
「参加」までは人類学でいう多文化主義にあたり、それを超えて多自然主義になるときに「制作論」が手がかりになる。つまり『制作へ』では、その制作的なありようが、テキストを通して磨かれていく。あらゆる知をつぎ込み、過剰ともいえる「制作的空間」論が展開されている。
そして多自然主義的な「制作的空間」において、どのように私たちの身体を組み換え、変容させていくのか。それが大きな問題提起になっているのだと感じました。
古谷 
 僕は、アートの方へ話を向けたいのですが、二十年ぐらい前から、「関係性の美学」という考え方が流行してきました。その主意は、芸術作品は人と人とを関係させる媒介として存在する、というものです。ところが最近になって、「オブジェクト指向存在論」が起こり、むしろ事物と事物を関係させるために人がいる、という考え方に転換しています。が、美術の範疇で語っている限りは、「関係性の美学」が「オブジェクトの美学」に反転しただけで、結局何も変わっていないと思うんです。
それに対して上妻さんが試みているのは、「関係性の美学」と「オブジェクトの美学」の、その両者を行ったり来たりしながら、両者が組み合うようにして場を変えていくこと。それがとても新しい。
上妻さんの本には、いくつもの「往還」が描かれますね。例えば、森の中の「狩る/狩られる、見る/見られる」関係性、あるいは自己同一性の裂け目として「「私は私でなく」、「私は私でなくもない」」という意識の流れ。さらにはキュレーターの立場から、具体的に田中功起作品について、「作ること」と「見せること」のその先に、「見せること」と「再度見せること」という、解釈を通じた「制作」の継続と往還が示されている。絵画の「制度」が「見ないことの可能性」を、「見ることの可能性」へと変容させ、制作が「見ないことへの不可能性」へ押し戻し、解釈が「見ることの可能性」へ再フォーマット化する。常にくるくる回りながら動いていく、その思考をとても新鮮に感じました。
上妻 
 奥野さんが話された、「参加」までが多文化主義的で、「制作」は多自然主義的だという指摘は、確かにそうですね。自分の外側にあるものを「消費」する、あるいは外側にあるコンテンツや状況に「参加」するときは、「私」の自己同一性が前提とされています。逆にいうと、多文化主義的な立場からは、私がいる文化を抱えて他文化に参加する、あるいはその特権的な地点から消費する、という図式が成立しやすい。
それが制作の段階に入ると、古谷さんが挙げてくれたように、くるくるとAとBを行き来する往還運動によって、AもBも同時に変わっていくということがあり得ると考えているのです。それが可能となる空間を、「制作的空間」と名付けたということです。
この本では、まだ具体的な分析はできていませんが今後、「制作的空間」で身体が組み換えられることを前提に、どのような変換が行われているのか、あるいは操作されているのか、言葉にしたいと思っています。


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この記事の中でご紹介した本
制作へ 上妻世海初期論考集/オーバーキャスト エクリ編集部
制作へ 上妻世海初期論考集
著 者:上妻 世海
出版社:オーバーキャスト エクリ編集部
以下のオンライン書店でご購入できます
森は考える 人間的なるものを超えた人類学/亜紀書房
森は考える 人間的なるものを超えた人類学
著 者:エドゥアルド・コーン
出版社:亜紀書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「森は考える 人間的なるものを超えた人類学」出版社のホームページはこちら
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