上妻世海×奥野克巳×古谷利裕 別の身体を、新しい「制作」を 『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ) を読む|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読書人紙面掲載 特集
更新日:2018年11月30日 / 新聞掲載日:2018年11月30日(第3267号)

上妻世海×奥野克巳×古谷利裕
別の身体を、新しい「制作」を
『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ) を読む

このエントリーをはてなブックマークに追加
第2回
❖身体を組み換え、世界を形成する

上妻 世海氏
奥野 
 紀伊國屋書店新宿本店での上妻さんの独演会(二〇一八年十一月九日)では、レーン・ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』とエドゥアルド・コーンの『森は考える』から、「制作的空間」を捉え返す展開が非常に刺激的でした。そこでは、狩りの場での往還運動などが制作論へと折り返されたように思います。
上妻 
 コーンの『森は考える』は、南米エクアドルのアマゾン河流域に住むルナ人の民族誌ですが、僕が感銘を受けたのは、彼らが「可逆性」と「移行性」を前提に生きていることでした。この世界において彼らが「主」であることは自明ではなく、常に獲得されなければいけないものとして捉えられているということです。
狩りの現場では、人でありジャガーである位置に、自分を置く必要がある。一方でペッカリー(豚)の目線に立ちながら、ペッカリーになりきらず、自己を維持する必要もある。そのためにハンターたちは夢の中で、動物やかつての支配階級であった白人(近代人)ともミメーシス(模倣)の関係を培います。
狩猟民たちは、視点が移行し主従が移行することが前提の世界観の中にいるわけですが、そこには近代的自我を持つ存在も含まれている。現代社会に生きる人間は、未開地に生きる人々が、コギトを持たないと捉えがちですがそうではない。彼らは動物から近代人までを、行き来することができる身体なんです。
そうした模倣関係を通じた身体の組み換えから、過去が再構築されることで、現在の狩りの形式が作られていく。そこには、「制作的空間」に基づいた歴史形成と未来形成があるのだと考えます。
それは、自分の外部のフィールドに参加し、あるいは消費するという方法で、世界を構成しようとする仕組みとは全く違う。自分の身体をも形成するというか、ともに生きるというのか。つまり、ともに制作し制作されるという関係性の中で、行われる世界形成なんです。

奥野 
 「制作的空間」に降りていき、内在的な観点から見ると、AはBから見られていることを先回りしつつBを見るだけでなく、Bも同様の視点移動をし、そうした視点の往還運動を統御しながら、身体を変容させている。その往還運動の繰り返しが「制作的空間」を立ち上げるということですね。その見通しは、多文化主義的に、唯一の客観的な自然と複数の文化がある、のではない。不安定さを内包しつつ、移行性を手がかりとしながら、「制作的空間」が立ち上がってくるのだと。
上妻 
 その空間の中に模倣関係や、イメージの移行、視点の移行、情の移行が発生し、それによって身体が組み変わりつつ、組み換えつつという状況が発生しているんですよね。
中村雄二郎の『共通感覚論』で語られる〈共通感覚〉も「異なる知覚への可能性」が存在する場、つまり僕のいう「制作的空間」です。
中村氏の言葉である「主語的統合」は、二元論的な世界観ですが、ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』にも、狩猟民たちが、キャンプでは二元論で会話をしていることが書かれています。つまり狩猟民たちは、四六時中自己を不安定な場に置いて、命をやりとりしているわけではないのです。普段、彼らは主語的統合の世界で、つまり主語と述語という僕たちにも馴染みのある世界認識のあり方で生活をしています。ミメーシスによって、情やイマージュや視点を交換し、身体が組み換わるような「制作的空間」へは降りていく必要があります。そして、戻ってこなければなりません。彼らはこの往還運動を行っているのです。
『制作へ』では、この垂直方向に行き来することも「制作」と呼んでいました。つまり「制作」によって「制作的空間」に入るというトートロジカルな定義を提出しました。しかし、様々な人たちと対話していく中で、いまは垂直方向への往還運動を「儀礼的制作」と名付けをした方が、分かり易かったかもしれないと思っています。
ウィラースレフによれば、ユカギール人のハンターたちは、森に入る前にサウナに入り人間の匂いを落とす、あるいは森の中ではヒトの言葉は話さない。そうした儀礼的制作を通じて、非人間化する。この行為を僕は、「制作的空間」に降りていくことだと考えています。そして彼らは、森からキャンプに戻ると、焚火の煙に巻かれたり、煙草を吸ったり、意味のないおしゃべりを延々とするというような行為を通じて、再び人間化する。もう一度、主語的統合の世界に戻ってくる。このように垂直方向の往還運動があるのです。こうした、人間化と脱人間化のプロセスを、儀礼的なものとして、各々の民族が持っているわけです。
例えば、この垂直方向の動きは僕たちに近い場所でも様々に行われています。例えば、ある格闘家は毎日の練習前に、四時間準備をするそうです。ヨガだとかストレッチだとか、四時間準備して、その後練習をする。
古谷 
 試合前ではなく、練習の前にですか。
上妻 
 そうなんです。練習とはいえ、格闘家のトレーニングは常に死と隣り合わせです。彼らはストレッチやヨガなど非人間化の行為によって、制作的空間に降りることで、命に肉薄する危険な状況の中で、ものごとを行うことができるのでしょう。それらはその度ごとに別の〈私〉というモードを立ち上げる「儀礼的制作」なのです。
垂直運動で降りていった「制作的空間」の中は、水平運動のイメージです。そこで僕たちは魂や情やイマージュや視点の移行によって、身体を組み換えています。
1 3 4 5 6
この記事の中でご紹介した本
制作へ 上妻世海初期論考集/オーバーキャスト エクリ編集部
制作へ 上妻世海初期論考集
著 者:上妻 世海
出版社:オーバーキャスト エクリ編集部
以下のオンライン書店でご購入できます
森は考える 人間的なるものを超えた人類学/亜紀書房
森は考える 人間的なるものを超えた人類学
著 者:エドゥアルド・コーン
出版社:亜紀書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「森は考える 人間的なるものを超えた人類学」出版社のホームページはこちら
このエントリーをはてなブックマークに追加
奥野 克巳 氏の関連記事
古谷 利裕 氏の関連記事
読書人紙面掲載 特集のその他の記事
読書人紙面掲載 特集をもっと見る >
学問・人文 > 民俗学・人類学関連記事
民俗学・人類学の関連記事をもっと見る >