上妻世海×奥野克巳×古谷利裕 別の身体を、新しい「制作」を 『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ) を読む|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年11月30日 / 新聞掲載日:2018年11月30日(第3267号)

上妻世海×奥野克巳×古谷利裕
別の身体を、新しい「制作」を
『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ) を読む

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第3回
❖僕らは歯の折れたジャガーになっていないか

上妻 世海氏
上妻 
 その一方で「制作的空間」には、「誘惑と愛」の命題もあります。ウィラースレフは恋に落ちるとは、「自分自身を拡張して、相手に同化すること」であり、狩りの現場における愛は、同時に死を意味すると書いています。時にエルク(ヘラジカ)の魅力に惹き込まれ、撃つことはおろか、何も考えられなくなる者がいるのだと。自分は誘惑しているつもりでも、それがいつ愛に変わるか分からない。誘惑は常に、ある種の危険性を帯びています。
「007」シリーズでも、初めはジェームズ・ボンドを誘惑する敵側のスパイだったのに、気がついたら愛してしまっていたというストーリーがありますよね。愛はスパイの死を意味する。これは、近代社会にも当てはまる話です。
奥野 
 シベリア・ユカギールのハンターは、狩りの前日、夢の中でエルクを誘惑し交わる。となぜか翌日、エルクがハンターの元にやってくると。しかし、そこでハンターがエルクとの愛に浸りきってしまったら、エルクが主でハンターが従となる。それはハンターの死を意味する。本来の目的からすれば、エルクを誘惑するにとどめ、ハンターはエルクを撃たなければならない。
恐らく人間と人間、人間と生物種、さらには人間とモノとの関係にも、「誘惑と愛=死」という駆け引きがある。水平的な「制作的空間」では、モノ、生物種、あるいは情報との関係を築く中で、必ずしも人間は主体にならない。そういう不安定な場に身を置くことで、制作されるものについて、上妻さんは言及している。
上妻 
 さらにいうと、そうした私性が不安定な現場で、主であることをいかに維持するのかということに、ヴィヴェイロス・デ・カストロやコーンは言及しているんですよね。森の中での言葉の使い方一つとっても、「それ」というか「あなた」というかで、全く違ってくるのだと。生物種を人格化すると同時に、自らを対象化されないことを意識した文法の使い方、行動の技術を彼らは持っています。「私―汝」という関係性を維持することに、非常に繊細な手つきで、彼らは森に生きている。
では、そういう世界観を前提としない僕たちは、常に主体でいられるのか……そうではないでしょう。卑近な例では、SNSも自分が書きたくて書いているのか。むしろ情報に書かされている、と考えた方が適切な気もします。
起業家のイーロン・マスクは、インターネットは人間の大脳辺縁系の反映に過ぎない、といっています。人間の恐怖や不安や喜びといった感情が、インターネットにビッグデータとして集積されているのだと。ウェブ上に猫やおいしそうな食べ物の画像がたくさんアップされるのも、政治的問題や芸能人の言動が炎上するのも、インターネットが人間の感情の写像である表れです。のちの世に、AIがインターネットを使うとしたら、人間の反応パターンとして用いるだろうと。そう考えると、僕らがいま自己表現として、主体的に書いていると思っているものも、むしろ情報に書かされていると考えた方が自然なのかもしれない。
古谷 
 確かにそうですね。現状でも、我々が検索するたびにたまるデータで、Googleは技術開発や商売をしている。検索するたびに、Googleからいくらか貰ってもいいぐらいですよね(笑)。いま人間は、何よりも安上がりのセンサーとして、便利に使われている気がします。
上妻 
 マリリン・ストラザーンの『部分的つながり』の中では、ダナ・ハラウェイの「サイボーグ」の概念が、議論を拡張して紹介されています。サイボーグとは、「全体の一部としてではなく、何かとの」繫がりとして作用する。何かと接続することで主体の可能性が拡張されることが前提とされている。でも実は、接続することで縮減することもあるのではないかと。
中国やラオスの工場で、長時間労働に従事している若者は、むしろ工場の部品になっている。人が工場を使っているのではなく、工場の部品として人が使われているという状況がある。人とモノ、人と自然との繫がりの中で、こうした反転はいつでも起こり得るし、起こっているのだと。
「制作的空間」において、常に起こり得る主従の可逆性の中で、ハンターたちはいかに自分を対象化されないかに気を使い、顔を持たない、狩られる「It」になることを恐れています。その危機感を恐らく現代人は持ち合せていない。二元論的な視点しか持たないから、自分が情報に書かされているのではないかとか、社会に働かされているのではないかという、問題意識を持ち得ない。
奥野 
 『森は考える』に、ジャガーとリクガメの話がありますね。
上妻 
 ジャガーがリクガメを嚙んだところ歯が折れて、モノが食べられなくなり餓死したら、その後リクガメがジャガーを食べたという話ですね。

ジャガーと対峙してしまったとき、もしあなたがうつ伏せの状態であれば、あなたはジャガーにとって「It」であり、それでは食べられてしまう。食べられずにいるためには、まなざし返さなければいけない。視線を返すとき「汝」になる。狩りの現場では「見る/見返す」という関係性、「我―汝」の関係性に居続けなければいけないと彼らは意識しています。
でもこの情報社会において、僕たちはそのことを、どこまで意識できているのか。つまり僕たちは、いつのまにか歯が折れたジャガーになっているのではないか、ということです。
奥野 
 なるほど(笑)。捕食者として活動していると思っていたところが、歯が折れて役割が反転し、「It」として見返されて食べられてしまう。
上妻 
 僕はコーンもウィラースレフも、ヴィヴェイロス・デ・カストロも、遠くの誰かの話を書いているとは思っていません。むしろ普遍的な、現代社会では抑圧されているけれど、本当は存在している世界のあり方について、記述されていると思っているんです。
奥野 
 そこがすごいところです。人類学者ならそれらのテキストを民族誌として読んで、抽象化へ進んでしまう。そこから具体的な疑問なり問題点を、なかなか摑み出せない。ところが上妻さんは同じテキストを高解像度で、まるで別のものとして読んでいる気がするんです。読解の可能性が、拡張されていく。そして見通しそのものが非常に明るい。だからもしかすると、これから人類学が変わるとすれば、上妻世海によって変わる、と最近思っているんです。



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この記事の中でご紹介した本
制作へ 上妻世海初期論考集/オーバーキャスト エクリ編集部
制作へ 上妻世海初期論考集
著 者:上妻 世海
出版社:オーバーキャスト エクリ編集部
以下のオンライン書店でご購入できます
森は考える 人間的なるものを超えた人類学/亜紀書房
森は考える 人間的なるものを超えた人類学
著 者:エドゥアルド・コーン
出版社:亜紀書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「森は考える 人間的なるものを超えた人類学」出版社のホームページはこちら
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