上妻世海×奥野克巳×古谷利裕 別の身体を、新しい「制作」を 『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ) を読む|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読書人紙面掲載 特集
更新日:2018年11月30日 / 新聞掲載日:2018年11月30日(第3267号)

上妻世海×奥野克巳×古谷利裕
別の身体を、新しい「制作」を
『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ) を読む

このエントリーをはてなブックマークに追加
第5回
❖近代化の中で、身体が開かれる可能性

奥野 克巳氏
奥野 
 私が上妻さんの考えを面白いと思ったのは、「制作へ」の最後に、養老孟司とデイヴィッド・エイブラムが出てくるところです。話は養老氏がテレビ番組内で語った言葉から始まります。ある自殺した女の子の日記には人しか出てこない。人間は「軸足の半分は、花鳥風月の自然に置いたほうが良い」と。
あるいはエイブラムが、東南アジアを訪れて自然と接し、北米に帰ってきたら、文明社会の文化様式に再度適応していく自分自身に落胆したと。彼は「文明の縁に自らを位置づける」ために再度自然に囲まれた世界に旅立ちます。
上妻さんは彼らの考えを、一定程度評価している。ただ彼らと違うのは、都市に住んで骨の髄まで近代化した私たちが、多自然主義的なあり方にどう向き合うべきなのか、どのようにして実践的に身体を変容させていくのか、ということを考えている点です。
そこで上妻さんは、薄皮の差異に感応するという意味の、マルセル・デュシャンの「アンフラマンス」という言葉を引いてきます。デュシャンはアートにおいて、東洋的なレンマ的思考を実践した人なのだと。そこに、いわゆる大自然や花鳥風月に身を置くのではない、今日的な「制作」の可能性が探られていると思うのです。
上妻 
 養老氏やエイブラムの話には、理論的に共感するところはあります。森の中では、主と従が入れ換わり、「食べる/食べられる」関係の反転可能性が常にある。でも東京には「食べる/食べられる」関係は基本的にない。そのために、人間が常に主であると勘違いしてしまうことがある。
となれば確かに、軸足を半分、花鳥風月に置くことは、感応的な身体を作る重要な役割を果たすでしょう。ただ、実行は難しい。いまや自然は非常に高価なものになっています。動物園に行っても、外側から一方的に見る消費関係が保管されてしまう。かといって、アフリカや南米に行くことなど、金持ちにしかできない。つまりセレブだけが自然を取り戻せるという逆転現象が発生しているんです。では普通の人たちは、消費し消費される生き方のままでいいのか。といえば、近代化された環境の中でも、身体が開かれる可能性はあるだろうと僕は思うんです。
というのも、機械化の波が押し寄せ、近代化が加速し始めた十九世紀後半から二十世紀前半は、芸術史の上で、最も輝かしい時代なんです。
古谷 そうならば、養老さんやエイブラムの説は、矛盾してしまいますね。
上妻 
 僕は、近代の芸術家たちがいかにして身体を作ってきたのかを見れば、そこには現代に生きる僕たちにも使える技術があるはずだと考えました。
身体を開くためには、先ほどから話をしている、「移行性」「可逆性」「共感性」「共感覚性」の四つの要素が必要だということになります。それらは、概念としてのみ存在しているわけではなく、僕らの身体のポテンシャルとして、実際に備わっていることが科学的に証明されています。では、近代社会の中でそれらを活性化するためには、どうすればいいのか。そこで具体例として、ピカソとデュシャンを挙げたわけです。 
デュシャンの「アンフラマンス」の概念――これは例えば、たばこから立ち昇る煙と、口から吐き出す煙とは、視覚的には同一だけれど、温度も匂いも異なるし、時間によって変化する、そういう小さな差異を感受するということです。
古谷 関連して、チェスゲームが人を四次元へ導くという話も、参照されていましたね。ここでも視点が、自分の側から相手の側へくるくる行き来する。私一人の可能世界で閉じていては勝てないのだと。
上妻 
 デュシャンはチェスの名手だったんですよね。チェスでは、反転した駒が並ぶ盤を挟んで、私とあなたが向き合っている。勝つためには自分の側から最善手を選ぶだけではなく、クルッとひっくり返って、相手の視点に立ち、それをさらに自分に折り返す必要がある。
この技術は、狩りと非常に似ています。エルクの目から自分を見る、それを再度自分に折り返すことで、エルクの動きを読んで狩る。チェスも狩りも、AとBを反転させながらまたがるような、視点の移行と折り返しの存在する、第三の空間を前提にしないと成立しない。
錯視画像の「あひるとうさぎ」は、あひるがゲシュタルトとして見えているときはうさぎは見えず、うさぎを見ているときはあひるが見えない、でも僕らは両方あることを知っている。そういう視点に人は立つことができる。「アンフラマンス」や「四次元」という、人間に備わった認知のあり方は、二十一世紀の現代社会に生きる僕らが生き延びる技術としても使えるはずだと、ここで示したかったんです。



1 2 3 4 6
この記事の中でご紹介した本
制作へ 上妻世海初期論考集/オーバーキャスト エクリ編集部
制作へ 上妻世海初期論考集
著 者:上妻 世海
出版社:オーバーキャスト エクリ編集部
以下のオンライン書店でご購入できます
森は考える 人間的なるものを超えた人類学/亜紀書房
森は考える 人間的なるものを超えた人類学
著 者:エドゥアルド・コーン
出版社:亜紀書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「森は考える 人間的なるものを超えた人類学」出版社のホームページはこちら
このエントリーをはてなブックマークに追加
奥野 克巳 氏の関連記事
古谷 利裕 氏の関連記事
読書人紙面掲載 特集のその他の記事
読書人紙面掲載 特集をもっと見る >
学問・人文 > 民俗学・人類学関連記事
民俗学・人類学の関連記事をもっと見る >