上妻世海×奥野克巳×古谷利裕 別の身体を、新しい「制作」を 『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ) を読む|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年11月30日 / 新聞掲載日:2018年11月30日(第3267号)

上妻世海×奥野克巳×古谷利裕
別の身体を、新しい「制作」を
『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ) を読む

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第6回
❖各々の制作へ、説得しつつ誘惑する

古谷 利裕氏
古谷 
 花鳥風月には、お金持ちしかアクセスできないという話は、アートの世界にも共通するように思います。現在のアートは、お金持ちのコレクターとギャラリストが手を結んで、財産を保護していくような仕組みになってしまっている。でも上妻さんは、本書のあとがきに、「一つの〈形〉を作ることは、いつか、どこかの、だれかが別の〈形〉を作るための足場を作ることに似ている。僕は直接誰かと繫がることよりも、なにか〈形〉を媒介にして、部分的に、間接的に繫がる共同体の可能性を、どこかで信じているのだろう」と書いています。たぶん、本来アートに関わるというのは、そういうことなのでしょう。作品として自分を形にし、普通なら接点のないような人にも何かが伝わったとき、そこから小さな共同体が生成されていく可能性。そのことを信じていく必要があるのだろうと。

今後、キュレーターとしての上妻さんは、どんな活動をしていくのでしょうか。
上妻 
 具体的な展覧会のイメージは、今はないですが……アートマーケットや今日の日本の美術界を取り巻く問題は、僕とは関係ない世界だと思ってます。
実感としてですが、届けたい人たちには、届くような環境が整ってきていると思うんです。いまの情報環境の中で、作品を継続的に制作し、適切なかたちで発表し、公表に当たっては自分のできる限り力を注ぐ。この鼎談もその一環ですが、そうすることで、読むべき人、見るべき人に届く、と感じています。僕と古谷さんも、いくつかの展覧会を通じて知り合いましたが、ネットがなかったら、年齢も離れているし、パーソナリティもたぶん違うだろうから(笑)、知り合うきっかけを摑めなかったかもしれない。僕はそうした環境も含めて、作品の可能性を信じています。
奥野 
 人類学にも最近は、アートと重なり合う領域が生まれてきています。異種間の創発的な出会いに注目し、人間を超えた領域へ人類学を拡張しようとする、「マルチスピーシーズ人類学」の延長上でも、バイオアートやパフォーマンスが行われているんです。例えば人間のお乳でチーズを作るとか。それは人にとっては、かなり異様な、不自然なこととして映り、それを食べるとなれば倫理的・衛生的な問題も生じてくる。そうしたパフォーマンスで揺るがそうとしているのは、固定化された観念への気づきです。

もう一つ例を挙げれば、一週間実験室用のコンテナで細菌を含む他種たちと暮らしたアーティストがいます。彼は動物愛護運動家から展示後の生き物がどうなるのかが触れられていないと嚙みつかれ、その批判に従って動物を解放した。現実に変異した実験室の蠅や遺伝子が組み換えられた虫が放たれていて、コーヒーカップについているかもしれないのです。

上妻さんの「消費から参加へ、そして制作へ」の最後には、こうあります。「あらゆる行為がカテゴライズされてしまう時代を引き受け、まずは頭をクールに保ち、そして様々なダンスを身につけることにしよう」「理由律による世界から、非理由律による世界へと進むために」と。

人間が上からモノたちを観察し、消費する立場は失われ、あらゆる存在が能動的に、並列的に、自己制作的に、自律しながら相互生成し、共進化し、協働している世界が開かれている。世界を止めるのではなく、動かすことが示されている。

その上で上妻さんは、具体的に行われているこうしたアートやパフォーマンスをどう評価し、それらと上妻さんの考えるアートの展望がどう同じで、どう異なっていると思っているのでしょうか。
上妻 
 批評的に、作品のよしあしを僕個人が判断するというよりも、それが一過性のもので終わるのか、プロトタイプとして未来の作品が作られる足場として機能していくのか、というところで考えることになるだろうと思います。

いま話に出た作品については、既存の価値判断やカテゴリーを揺るがす、考えるきっかけを生むという意味では、うまくいっている部分もありますよね。一方で遺伝子が組み換わった虫などについては、生態系にどういう影響を与えるのかも含めて、考えるべき問題だと思います。

つまり、アートというものを、どう考えるかなんですよね。アートも多極化の時代に入ってきています。美術館やギャラリストとは全く別の基軸で、メディアアートや、バイオアート、今までなら認知科学研究と見做されていたようなものも、ある種のアートとして展示発表がなされています。そうした、既存のアートマーケットや国家の組織を前提としない、独自の回路に期待できるのではないか、と思っています。

いまの時代には二つの軸が考えられるかもしれません。歴史的な文脈を意識して作るのではなく、体に効くような認知の変化を生み出すもの。それから、既存の概念を疑わせ、別の概念を形成してしまうもの。

九〇年代から二〇〇〇年代に、現代アートに対し、もう全て出尽くしている、という評価がありました。でもそうであるならば、文脈を意識して作るのではなく、身体に効くか効かないかを前提に作ればいい。そうなると、アートはもっと面白くなるのではないか。アートは本来、普遍性があるものだと思うんです。
奥野 
 最後に、この本は、近代を生きる人々、あるいは学問をする人々に対し、どういう射程で刊行されたものだったのでしょうか?
上妻 
 消費や参加にとどまって、ある種の制度や組織の中でだけ流通するような、論文はもったいないですよね。人類学の知識が、学者の間だけで流通する論文ならば、それは本当に人類のためになっているのか。制作的視点を持った瞬間に、人類学も、認知科学も、芸術史も、僕らが生き延びていくための一つの重要な素材になるんです。

それはアート作品も同じで、制度の中で、過去に基づいて現在を評価するのではなく、プロトタイプとして未来に繫がるようなもの。僕らの身体に効くか効かないかを前提に、作品を通してみんなが考えるきっかけになったり、自分なりの概念を作るきっかけになるようなもの。各々が制作的になる視点へ、説得しつつ誘惑する、そういう文章を書いたり展示をしていくのが、僕の役割ではないか、と思っているところです。      (おわり)



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この記事の中でご紹介した本
制作へ 上妻世海初期論考集/オーバーキャスト エクリ編集部
制作へ 上妻世海初期論考集
著 者:上妻 世海
出版社:オーバーキャスト エクリ編集部
以下のオンライン書店でご購入できます
森は考える 人間的なるものを超えた人類学/亜紀書房
森は考える 人間的なるものを超えた人類学
著 者:エドゥアルド・コーン
出版社:亜紀書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「森は考える 人間的なるものを超えた人類学」出版社のホームページはこちら
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