改組新第三回日展開催に寄せて➂|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年11月11日 / 新聞掲載日:2016年11月11日(第3164号)

改組新第三回日展開催に寄せて➂

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二〇一六年一〇月二八日から一二月四日まで国立新美術館で「改組新第三回日展」が開催される。日展は日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書など約三〇〇〇点の新作・入選作が全国から集まり一堂に展示される。本紙では「改組新第三回日展開催に寄せて」と題し全四回で理事長はじめ日展作家のインタビューを掲載する。文責は美術ライターの松井文恵氏にお願いした。 (編集部)


改組新第3回日展会期:10月28日(金)~12月4日(日)
時間:10時~18時(入場は17時30分まで)
場所:国立新美術館(港区六本木7-22-2)
入場料:一般1200円/休館日:火曜日 
※11月12日(土)は「日展の日」として入場無料

漆芸家 三谷 吾一氏インタビュー

小学校六年で沈金師 前大峰氏との出会い

塗りの町、輪島に生まれ、十四歳から漆芸家を志した三谷さんは九十七歳。今も現役で黒地にプラチナやパールなどを使った美しい色彩の漆芸作品を生み出している。輪島にある三谷さんのアトリエを訪ねた。
三谷吾一さんは大正八年に輪島に生まれた。彫金師を目指そうと決めたのは小学校六年生のときだという。昭和5年の帝展で特選を受賞した彫金師前大峰さんが小学校で講演会を行い、その話を聞いて大いに感銘を受け、塗師の家に生まれた自分も作家として特選がとれるようになりたいと強く思ったのが出発点だった。そしてその時の志をずっと貫き通して今日まで来たという。小学校六年生の時に一生の仕事を決めたのである。しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。

絵が好きで、小学校でも賞をとるほどの画才を発揮した三谷さんは、輪島塗りの職人の職人の木地作りから始まり下地、塗りなどのさまざまな工程のなかでも、加飾を、そのなかでも華やかな蒔絵ではなく、沈金の道を選んだ。半年から一年かけて何層にも塗り重ねられた漆塗の面に、鏨風の刀で文様を彫りつけ、これに漆を擦り込んで、金箔や金粉を刀痕内に押し込んで文様を表す技法である。高等小学校の高等科を卒業すると、十四歳にして住み込みで沈金師蕨舞洲氏の徒弟に入った。その修業は、挨拶の仕方からお茶の出し方、お客様への対応の仕方など、社会人としての心得を教えこまれる厳しいものであった。

こうして五年の徒弟を終えたあと、舞洲氏と兄弟弟子関係にある前大峰氏のもとでさらに修行を重ね、昭和十六年、沈金師として独立する。
昭和十七年二十三歳の時に第五回新文展に出品の「沈金漆筥」が初入選。アヤメの花を描いた手箱である。
二十六歳で終戦を迎えた。翌二十一年、新文展は名前を改め日展となり、春と秋の二回行うことになった。その秋には入選を果たす。しかし、ここからは、自分の想いを制作していきたいが成果が上がらず長く苦しい時代になった。
認められたのは昭和四十年、四十六歳のとき。第四回日本現代工芸美術展で「飛翔」が現代工芸大賞・グランプリを受賞したのである。そして翌年の第九回日展で「集」が特選に選ばれた。十四歳のときに憧れた恩師前大峰と同じ特選を受賞したのだ。
三谷吾一《蝶の楽園》(漆芸沈金)2016年改組新第3回日展出品作品
独特の美しい色彩と点彫りの抒情詩。
「毎年違う物をつくりたいんです。少しでもいいものをと思って挑戦し、失敗することもある。でも失敗が勉強になる。仕事はその積み重ねなんです。一つ一つ勉強して前に進むんです」穏やかな面持ちのなかにそうして前向きにまっすぐ進んでいらした強い意志。十四歳から八十三年間にわたって漆と向き合ってこられたわけである。
「金の上にプラチナを乗せて漆で抑えて、エルジー粉、パール粉で微妙な色を出す、この方法を主体に行っている。これは私が初めてつくったものです」
三谷さんの作品がもつ独特の美しい色彩の秘密である。黒地に金ではなく、プラチナ箔や色のついた粉を使うことで、柔らかな色調と細かな濃淡の調子を実現した。
沈金一筋に歩みながら、三谷さんの作風は、伝統的な輪島塗の絵や意匠とは全く異なり、師の大峰氏の作風とも異なるもの。
「職人に大切なのは、考え方と技術ですが、私の場合はまず考え方を優先させて、そこに技術をもっていく。でも伝統工芸というのは技術優先で進むことが多いんです」まず構想があって、それをどう技術で折り合いをつけていくか。三谷さんは常に考えて、新しいものを生み出そうとしている。そこが作品に大きな違いを生んでいる。

また三谷作品の特徴は細かな点彫りにある。点で彫っていく。そこには深い、浅い、間隔をあける、つめて彫るなどによって、柔らかい、硬いのさまざまな表現の違いができてくる。印刷がドットでできているのと同じ手法を彫りで進めているということだ。気が遠くなるような細かな手仕事である。
輪島塗りの漆器は、木型に布をまいて漆を何層にもかけた、柔らかなあたたかみを感じさせる器である。その上に細かな細かな絵柄をのみで彫って、そこに金箔などを埋め込んでいく。
グランプリを取ってからは、本格的にこの点彫りを進めてきた。「細かいものはこのめがねをかけてみるんですよ」と笑う。
長男の三谷慎さんは造形大を出て彫刻家になり、イタリアに十一年滞在した後、輪島の伝統とイタリアの伝統を組み合わせたモダンな、しかし父親の芸術との共通点を持つ作品を作られている。二人展をときどき東京でも行われているという。

毎年違うものを、少しでもいいものに挑戦

三谷吾一《黄昏》2015年改組新第2回日展出品作品
日展について伺うと、「人材を育てること、バックアップすることが大切と思います。審査員が育てていかなくてはね。いい人を潰してしまわず、探して育てることですね」
若い人へのアドバイスを尋ねると、少し間を置いて、「これは本人のやる気の問題ですね。作家としての考え方ができていること。作品を通して人間の考え方をつくるということですね」
徒弟時代に休みというのはお盆と正月とお祭りのときしかなかったという。それが普通だった。だから今のような休みにはなかなか慣れることができなかったと語る。
「グランプリをとってから、ずっと休むことなく五十年作り続けてこられたのは、奇跡のようなもんです。人によっては病気したり、家の事情でできなかったりしますから、私は幸せでした」

今後の抱負をうかがうと、「今後は、年に一点力を入れて作っていきたいと思っています。いいものを、そして常に違ったものに挑戦していきたいんです。好きなことをしているので、ストレスもなく、できているのは本当に幸せです」
独立してから七十五年という長い年月に作られた作品の数々には、伝統工芸の世界にあっても常に新たなものを作ろうとする姿勢が貫かれている。この作家の限りない創造の源を垣間見せていただいた。

書家 日比野 光鳳氏インタビュー

はんなりした世界を志向する

一二〇〇年前に漢字をもとに仮名が生まれたのが京都です。私は現代の京都に生まれ育って仮名を学んでいますから、仮名を発明した歴史を考えながら、京都に生まれたこと、特に私はその点を強調していきたい。そしてこの地で仮名書を伝えていかなければならないと思っています。父五鳳も同じ思いでこの京都でがんばってきたと思います」
日比野さんの言葉に力がはいる。
「日本は紀元前に中国から伝わった漢字の音を借りて、日本の風土に合わせて独自の仮名を作りました。七九四年に都が京都に移り現在の仮名が完成します。万葉仮名はまず草仮名になり、それがより洗練されて、現在のひらがなになります。九〇五年に最初の勅撰和歌集「古今集」が仮名文字で書かれ、日本文化の大事な要素となりました。紫式部が源氏物語を書いた頃は、男女関係なく仮名を使うようになりました。この日本独自の文化を創ってきたのが京都です。仮名文字がなければ日本文字もなく、和歌も俳句も発展しなかったでしょう。日本文化の基礎そのものが仮名書なのです」

近年、春夏秋冬の書を京都の迎賓館に納めた。茶室もあり、畳の部屋に外国人をご案内するときの掛け軸は仮名書であるという。
「書という芸術は日本において非常に大事なものの一つです。それを学ぶのは月日がかかります。しかし、箸と同じように筆も使えるはずです。日本人は筆を使います。箸をもっている人は誰でも筆を使うのも上手になります」 

そして、日本人としての生き方にも触れる。
「日本人である以上、何事も美しくありたい。自分の書く字も美しくありたいものです」
日比野光鳳《千鳥》 2016年改組新第3回日展出品作品

長年活躍されている日展についてお尋ねした。
「多くの門人を日展に出品させつつ、自分もまた、その年一番の作品を発表することが、最も大切な仕事だと考えています。
この三年、日展には逆風が吹きました。第五科の一人として皆様にはお詫び申し上げたいです。しかし、それゆえに、公平で誰もが認める団体に変わることが出来たのは良かったとも思います。しばらくすると、本当に能力のある作家が増えていくのではないかと、今後に期待をしています」
「日展はそれぞれの作家が永年積み上げてきた技術や感性をお目に掛ける展覧会ですから、ご覧になる方は、作家名とその作家の作品の傾向を覚えていっていただけるといいでしょう。

繰り返し毎年見るうちに、この作家の今年の作品はいいなあとか、この作家なにか新しいことを始めたんだなということがわかるようになってもらいたいですね」
作家を目指す若い人に対しては、「たしかに芸術で生活はなかなか難しい時代に入っているかもしれませんが、ものを創り、作品を生み出すことはとても有意義なことです。一人でも多くの優秀な作家が芸術界にとどまってくださり、日本の文化力が高まることを望んでいます」
日本において大切な書という芸術

日比野光鳳《新年》 2015年改組新第2回日展出品作品
一二〇〇年前に漢字をもとに仮名が生まれた京都。その京都に生まれ、京都で仮名書きを伝える書家日比野光鳳氏に貴重なお話をうかがった。
日比野光鳳さんは、京都に生まれ、五歳の頃から父である日比野五鳳氏のもとで書を習っていた。同志社大学を卒業、一般企業に入る。実社会では、人間関係や組織のあり方などを学び、その十二年間の経験が役立ってきたという。
「正式には三十六歳から日展を始めました。それは遅かったにしても私は五、六歳から書をやっています。日展を舞台にして一般の入選から始めて、特選を二回いただいて無鑑査、委嘱、審査員をやって、審査員を三回すると評議員、芸術院賞をいただいて理事、そして芸術院会員、八十で定年ですから、今は日展顧問です。月日の経つのは早い。気持ちは五十代六十代ですがいつのまにか八十七歳です。書を勉強し、人に教えるということも大事なことです。たくさんのお弟子がいて、常に反省しながらやってきているのですが、たぶん死ぬまで満足な書は書けませんね。だんだん理想が上にあがりますでしょ」
三十代は、書作家として、書の基本を学び直すことと同時に父の指導で、少しずつ作品を発表し始めて、一九六七年、三十八歳の時に初入選。
四十代で、母校である同志社大学文学部の非常勤講師となり、後進の育成に務めた。その後も近隣の大学で教鞭を執ってきた。
書は、言葉を書くもの。仮名書の場合、日本語の和歌や短歌、俳句を主に選ぶ。詩文の選定や選歌の過程で、書く言葉にも気を遣う。良い歌に出会うと、書くのも楽しさが増すという。
「万葉集や古今和歌集、新古今和歌集を常に読んでいます。日展を始めたころは万葉集の歌を選んで書いて、やがて古今和歌集です。最近は年がいったので新古今和歌集の恋の歌や春夏秋冬の歌を中心に。それから近現代の作家で正岡子規から始まって島木赤彦など。それぞれすばらしいです。

特に季節の歌がよろしいです。古今も新古今もできたのは京都ですから京都に生まれ育った私がそれを題材にするのがいいと思って、今は新古今を中心にやっています」
しかし、昔の歌をそのまま書くのではない。
「これからは、変体仮名を使わないで、現代の歌を芸術的に表現する。仮名ではちらしというのですが、構成を今の時代に合わせていかに新しいスタイルにしていくか。現代の二〇一六年の作家が書いたということを表現したいと思います」
京都の風土に加えて作家の現代性をうまく合致させ、気品ある雅の世界の書を考えて制作する。
「京都には『はんなり』という言葉があって、品があって控えめで、それでいて、なにか少し華やかなモノや人を、そう言います。書の作品には、なによりも強い部分や迫力ある部分が必要と考える作家も多いですが、私は上品で華やかなもの、はんなりした世界を志向する作家だと言えます」
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