「リンゴの唄」の真実 戦後初めての流行歌を追う 書評|永嶺 重敏(青弓社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年12月8日 / 新聞掲載日:2018年12月7日(第3268号)

様々な資料を駆使し 爆発的なブームに迫る

「リンゴの唄」の真実 戦後初めての流行歌を追う
著 者:永嶺 重敏
出版社:青弓社
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この本のページを繰っている間、あのメロディと歌詞が一体となって脳裏で響き続けているような感じだった。多少とも物心ついた身で戦中から戦後への境を跨ぎ越した者にとっては、特別の感慨を誘われるこの歌謡曲の誕生から大流行までの物語である。

闘いの頽勢の中にあって、戦意高揚の重苦しい作品の制作を強いられていた人たちにとって、〝明るく楽しい〟映画を…との思いは切だっただろう。まだ終戦前の二十年八月二日、映画監督・佐々木康、詩人・サトウ・ハチロー、作曲家・万城目正の三人がたまたま顔を合わせてその思いを語り合い、松竹歌劇団のスター・並木路子の名もあがった。

玉音放送から一週間は全国の映画館、劇場、ラジオの娯楽放送が自粛・停止となる。二十五日、佐々木は松竹大船撮影所長に呼ばれて、十月の封切に間に合うよう一本撮るよう依頼される。佐々木は助監督・岩沢庸徳が前に書いた脚本を換骨奪胎してレヴュー・スター誕生のストーリーに仕立てることとして僅か一週間でシナリオをあげ、すぐさまサトウに渡して主題歌作詞を依頼、一方、九月一日には並木の出演も決まり、わずか一か月間の撮影に入る。これが戦後初めて制作された映画『そよかぜ』である。その劇中歌は二種あって、一つがタイトル通りの「そよかぜ」、そしてかの「リンゴの唄」。共にサトウ作詞・万城目作曲である。リンゴ園のロケ撮影時には作曲が間に合わず、その場面は「丘を越えて」を歌って撮り、後でアテレコしたというエピソードもある。十月十一日の封切の前、九月十七日から連日のように予告新聞広告が打たれるのだが、ここで留意したいのは、占領軍司令部の民間情報教育局(CIE)が映画製作方針を定めるのは九月二十二日で、脚本などの事前検閲を始めるのは十月初旬からだ、ということ。つまりこの〝戦後第一作〟映画は占領軍の検閲なしに公開された唯一の作だろう。だがこの映画は目論み通りのヒットとはならなかったようだ。戦災のために全国的に映画館が激減していた故でもあり、スター誕生の陳腐な仕立てが新聞などの評者の顰蹙を買ったせいでもあろう。

だが作中歌「リンゴの唄」は爆発的なブームを呼んだ。なぜこの現象は生まれたのか。ここから著者はメディア研究家の本領を発揮し、NHKの資料をはじめさまざまな資料を駆使する。並木は十一月初めからの、ある一座に加わっての長期公演で大評判をとっていた。十一月十日のラジオ番組で、映画中で共に歌った人気歌手・霧島昇がこの歌を披露している。並木が放送でこの歌を初めて歌ったのは十二月二日だが、十日にはNHK初めての公開放送番組「希望音楽会」で観客に林檎を手渡しながら歌い、三十一日には「紅白音楽試合」(後の「紅白歌合戦」。合戦の語が占領軍不許可)で歌うなど、たびたび放送に出演した。より流行の起爆剤となったのは翌二十一年一月、これも戦後初の新譜として発売されたレコードであり、当時の放送技術では生出演しかなかったラジオから、レコードによる同曲が頻繁に流れるようになり、騒音にうるさくなかった当時、電気店や広告塔から街頭に流されて親しまれ、同月十九日から始まった「のど自慢」の人気曲となり、並木は二月末から占領軍専用のアーニーパイル劇場にも長期出演した。

海外からの引揚者や復員者、抑留所で耳にする者にとっては懐かしい母国の新生の〝明るさ〟を象徴する歌ととらえられた。こうして神話化された「リンゴの唄」伝説を語る著者の文章も愉しげで、読者もたのしい。敢えて望蜀を言えば、なぜこの歌がかくも人心をとらえ得たか、サトウの詩、万城目のメロディについての専門的な知見にも触れたかった。
この記事の中でご紹介した本
「リンゴの唄」の真実 戦後初めての流行歌を追う/青弓社
「リンゴの唄」の真実 戦後初めての流行歌を追う
著 者:永嶺 重敏
出版社:青弓社
以下のオンライン書店でご購入できます
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