シェロー/ファスビンダー ジャン・ドゥーシェ氏に聞く (85)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」
更新日:2018年12月11日 / 新聞掲載日:2018年12月7日(第3268号)

シェロー/ファスビンダー ジャン・ドゥーシェ氏に聞く (85)

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前列中央にドゥーシェ『マシスト=ドゥーシェ』(ヴァンサン・バロ作)
HK 
 パトリス・シェローは、当時、最も成功を収めていた演劇の演出家の一人ではあった。それが映画の世界ではうまくいかないのは、なぜでしょうか。
JD 
 多くの人がシェローについて話していた当時から、私は彼については触れないで来ました。ただ単に興味を持てないのです。物語のための、美しい物語のための物語など、どうでもいいのです。シェローとその周りの演出家たちは、説明調を特徴としています。彼らが行なっているのは、演出のデモンストレーションであり、必要とされるのはその論証する能力です。シェローは決して悪い演出家なわけではありません。悪いと言い切れるようなデモンストレーション好きの演出家は、他にたくさんいます。
HK 
 確かに、シェローの映画には説明が過剰なように感じます。「与えられたものの中でどれだけ上手に話を展開できるか」という演出の行き着いた点ではないですか。だからこそ、フランスの観客には好まれていたのではないでしょうか。
JD 
 確かに、フランスの観客達にはそのような傾向があると思います。
HK 
 ある意味でシェローは、フランスで1930年代から続く演劇的映画の歴史の行き着いた果てだと思います。
JD 
 それについてはシェロー以上にいい例があります。クロード・ソーテの映画は紛れもなくフランスの映画史の流れの中にありますが、批難することも擁護することにも意味を見出せないものです。つまり、ソーテの作るような作品とは、私たちの気を惹くような映画ではありません。映画というメディアの使用法ではあります。ある程度の聡明さと映画愛を持って作られた映画でもあります。しかし、映画作家ではありません。映画に限らず、重要だとされる芸術家の作品であれば、何度も見返したいと思うはずです。
HK 
 そのような何かを考えさせる作品には、歴史的に考えて、何かしらのモニュメント的要素があると思うのですが、どのようにお考えですか。絵画史でも映画史でも、記念碑的作品というものは存在しています。例えばファスビンダーの作品などは、この上なく1970年代のドイツというものを考えさせます。おそらく、今日の映画からは、そのようなモニュメント的要素は徐々に失われつつあるのではないでしょうか。
JD 
 当然、近年の作品を見ればわかるように、映画は歴史的存在を失いつつあります。ファスビンダーがなぜ重要であったかは、彼の世代が抱えていた問題に起因します。ファスビンダーが生き作品を発表していた時代とは、ドイツ人たちがドイツ人であることを恥じていた時代でした。戦時中ヨーロッパの各地でおぞましいことをしてのけたドイツ人たちは、戦後自分たちのした行いを恥じていました。ファスビンダーが生まれ育ったのはそのような時代です。若い世代は、先の世代のした行いを押し付けられて、抑圧されていました。戦争を通じてかつてのドイツ映画は失われ、その当時残っていたのは良質の映画だけです。そして、多くの映画は自分たちを悪として描く、抑圧的なものでもありました。そのような状況の中でファスビンダーは「あなたたちは何をしたのか。どうしてヒトラーなんかを受け入れたのか」と、上の世代を非難します。戦争についての非難だけではなく、社会を取り巻いていた、ありとあらゆる状況にまで、彼の告発は広がっています。ファスビンダーは社会の中に、そして歴史の中にいました。それが、彼の原動力だったのです。そのような当時のドイツ社会に対する非難のために、彼は当時のドイツ人達には厄介者にされていました。
HK 
 ドイツ人だけではなく、フランス人も今日に至るまで好んではいませんね。
〈次号につづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=ヴァンサン・バロ)
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