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更新日:2018年12月10日 / 新聞掲載日:2018年12月7日(第3267号)

得も言われぬおかしみに絡まれる 大前粟生「ドレスセーバー」

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ようやく最終回に辿り着いた。第一回目の時評を見返すと、一年かけて、ある程度普遍的で応用可能な知識を二、三抽出できたら御の字だ、みたいな変な見得を切っている。そのような成果が手元に残ったのかは、はなはだ心許ない。記憶の洗い直しは、数週間後の回顧評に回すとして、まずは一一月発表作である。新人賞の羅列のあとだからか、華々しさに欠けるラインナップではあった。しかし好きな地味さである。昼下がりのわずかな光の変化で、日常の風景が異界に変じ、軽い困惑と懐かしみに彷徨い込むような。

読み始めて、たまに絶句する小説がある。心に強い衝撃を受けるのではなくて、静かに言葉を失うのだ。そして半ば苦笑のような、得も言われぬおかしみに絡まれる。大前粟生「ドレスセーバー」(新潮)は、そういう短編である。京都の鴨川デルタに設置された、モニュメントだかパブリックアートだかの岩や鉄でできた五十着のウェディングドレス。そのドレスに入り込んで出られなくなった観光客を助ける救助活動隊「ドレスセーバー」の、古参として働く「おばちゃん」の「私」。教職を辞め、セーバーの安月給から毎月息子への振り込み分五万円を割き、若いスタッフとの関係に憂慮し、現場長を狙う同僚にハラスメントを受けながら、けなげな生活を送る。導入の設定だけで、軽い眩暈を覚える。まさかそんなドレスの陳列はないだろうと思いつつ慌てて検索してみたが、案の定、何も引っ掛からない。それでいて、トンデモな地域振興策が各自治体で実施されてきた状況に鑑みれば、妙に現実味のある仕事でもある。そして人物たちだ。変人を描くことは難しくない。だが、行動や台詞を通して微妙かつ真に変な感じを読者に喚起するのは簡単ではない。作者の作品を読んだのはこれが初めてなので、以前の作風は当てはまらないかもしれない。少なくとも本作は、自分が知らない歌でも、人が口ずさめば、そのメロディも歌詞も続きがわかってしまうという無駄な特殊能力を「私」が持つことを除けば、特に超常的な出来事も現れない。しかし、誰もがそこはかとなく変であること、日常的に奇人であることの魅力。強固な抑制力がなくてはこうは書けない気がする。たとえば、ドレスでケガをしたクレーマーの中年男性の装いが、毛玉の多い半袖のセーターにヴィトンのハンドバッグというのは十分に狙った描写のはずだが、淡泊すぎて読み飛ばしかねない。たいていの作家は、これみよがしに饒舌体で書いて「笑い」の説明書きを添えずにはおられず、私のような読者をうんざりさせた可能性も高い。それとも若手の言語感覚からすれば、この慎ましさは自然体に収まるレベルなのだろうか(今時の学生などを見ていると、意外に克己心が強いのか、ベタに素直なだけなのか、謎めくときがある)。いずれにせよ、とてもメジャーにはなれなそうなので、逆に一作目に取り上げてみた(とはいえ、最初は絶句系で無視されていた内田百閒も十数年後には随筆を通して再評価されたし、カウリスマキ監督もカンヌを取るほどまで支持されていったのだから、未来はわからない)。

さて、変といえば、舞城王太郎「裏山の凄い猿」(群像)も変な小説である。ただ、全く種類の異なる変さである。裏山には「凄い猿」と「悪いカニ」が住んでいて、後にわかることだが「凄い猿」は名前を角田チーズといい、人間の言葉もしゃべる。この猿を、六歳の時に行方不明になり、死亡扱いとなっていた兄の啓太だと思い込んだ植芝幸太(四二歳)は、山に入って同様に行方知れずとなった。「俺」は幸太の捜索隊に加わろうとするが、四十年前の事件に謎が多いことに思い当たり、推理の上、植芝家の近所の水路のなかでカニと遊ぶ子供のままの姿の啓太を見つけ出し、連れ帰る。ナンセンスな話である。だが、「わからない」を作り出す手つきのわかる変さである。小説は根本的に自由な形式である。その約束を物語の逸脱の仕方において段取り良く、かつ巧みに行使して見せるスタイルといってもいい。むしろこちらを書きたかったのでは? と思わせる、元同級生の城野直美と彼女に「絶対結婚できんわ」と断言される「俺」との間で交わされる「正しさ」と「優しさ」の二律背反の議論や、成人した現在の自己の欠如感は幼少期まで遡って特定されなければ補綴されないという、物語のベースにあるらしき少々古風な考え方を踏まえると、外見のでたらめさに反して、作者は真面目な性格なのだろうことを感じさせる。もしストーリーの外し方に熟練するほど高度なAIが開発されたら、それは舞城王太郎風の作品を書くだろう。しかし大前粟生の作品は、人間の生活が実感としてわかっていないから素で外している・・・・・未完成なAIが書いたような作品なのだ。別にどちらが良いという話ではないが。

獣人の繋がりで、松浦寿輝「人類存続研究所の謎あるいは動物への生成変化によってホモ・サピエンスははたして幸福になれるのか」(文學界)。何作目に当たるのか、俳人月岡ものの継続。「動物への生成変化」のような哲学的な概念を枠組みにして、そこにサブカル的といっても良いような極彩色のイメージ、たとえば『笑ゥせぇるすまん』にでも出てきそうな、月岡が仔犬プレイをする特殊な風俗店、研究所でのゴキブリのDNAを組み込んだゴキブリ人間の製造(『テラフォーマーズ』?)、そして同居するナターリア(誰だっけ?)に着物を着せ、マセラティに乗せて酉の市に遊ぶ俗で粋な想像なんかを盛り込む。そんな派手な世界の中心いる視点人物が、一般にはわびさび・・・・を重んじるべき俳人であるという奇怪な組み合わせで成立しているのが本作の特徴だ。最後に父の記憶と、その父が背負わざるをえなかった「父という名」に対して同情のような思いが書かれるが、動物化のテーマと関係するのかしないのか。このような異質同体キメラな内容でも落ち着いて読めるのは、全体を統べる筆力によるところが大きいと思う。文章それ自体が、崩落する世界をつなぎとめる「父の名」の役割を果たすべき時代なのかも。

もはや何繋がりでもないが――いや「人類存続」繋がりか――最後に上田岳弘「ニムロッド」(群像)。一昨年出版の『塔と重力』を自己参照しながら練り直したような話である。読者向けの説明を多くした書き方になっており、その分どうしても間延びするが、バランスは悪くない。私たちの現代生活を包摂しつつある、しかしその実体に関しては無知を決め込まざるをえないような新しいテクノロジーの話の取り入れ方、そして、それを宇宙規模の終末論的・SF的想像力へと飛躍させる仕方が毎度うまい。今回はビットコインの創設者サトシ・ナカモトと同じ名前を持つ「僕」による「採掘」作業を物語の中心に置いて、取引履歴の記載が虚無から有を作り出していく仮想通貨の原理を骨格に使う。そして物事の全ては、単一体となった全人類の「精神」に書き込まれる・・・・・・ことで存在を与えられ、保証されるという「完全言語」が司る世界(=「人間」の終わり)のヴィジョンへ。著者の作品は書評者泣かせだ。概要が表しにくくて仕方ない。行動範囲が狭く思弁的で、その思弁が小説内小説など複数のレイヤーで並行的に進行するからだ。どう書いてもまとまらない。しかも、ニムロッドを中心にしたバベルの塔にまつわる話(上昇)と「ダメな飛行機コレクション」の話(墜落)の対比など、散りばめられた神話的な要素を二項対立で捉えようとしても、多重的に各エピソードが接続していくため、誘われているのに整理を拒まれるのである。しかし聖書を見ればわかるように、世界の成り立ちを丸ごとひっつかもうとする物語は捻れを必ず含むもの。世知辛い文学業界である。早めに芥川賞を取って、つまり、多少のわがままのきく手形を得て、巨編に挑んで欲しいと思う作風なのだが。

今まで一度も評論を取り上げなかったが、わずかな紙幅を使って、群像新人評論賞当選作の長崎健吾「故郷と未来」についてもひと言。情報量の少ない、地味な柳田国男論である。が、今、たまたま卒論指導で柳田の伝記を知ったところ、良く言う近代人によるロマン的懐古のあらわれとは違う、柳田独特の分裂を感じていた。そのもやもやを丁度説明してみせてくれていたのである。言いたいのは、出会い方である。それを偶然というのなら、読むことにおいて数え切れぬほどの偶然に会ってきた。ここに「私」の問題が書かれている、と思わせる〈出会い〉は、文章によって演出されうるもの。小説も評論もその点では少しも変わらない。読むことで「私」の存在を作り上げている世界(の意味)が、たぶんわずかにでも組み替えられたからこそ〈出会う〉のだ。そのようにして「私」と世界のあいだに、絶えず〈自由〉な関係を導き入れ続ける力を文学というのなら、その必要はまだ簡単には消滅しない。そう思いたい。(さかぐち・しゅう=福岡女子大学准教授・日本近現代文学・文化論)
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