カオスに抗する闘い ドゥルーズ・精神分析・現象学 書評|小倉 拓也(人文書院)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年12月15日 / 新聞掲載日:2018年12月14日(第3269号)

カオスに抗する闘い ドゥルーズ・精神分析・現象学 書評
秩序志向のドゥルーズ?
哲学者の一面を照らし出す綿密な読解

カオスに抗する闘い ドゥルーズ・精神分析・現象学
著 者:小倉 拓也
出版社:人文書院
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「ドゥルーズの思考と〔…〕カオスを賛辞することとが混同されるはずがない」――ピエール・モンテベロはこのように述べて(『ドゥルーズ 思考のパッション』河出書房新社、第三章)、あのジョイス的「カオスモス」をカオスそれ自体から峻別する。そのため引き合いに出されるのは、ガタリとの最後の共著『哲学とは何か』(河出文庫、原著一九九一年)の結論冒頭の言葉だ。しかし実のところ、本来の文脈に即していうなら、問題の一文――「わたしたちが若干の秩序を要求するのは、カオスから自分を守るためでしかない」――は、「わたしたちをカオスから守ってくれる一種の「傘」」としての「オピニオン」への依拠を説明するものにすぎない。そしてドゥルーズとガタリによれば、この「傘」ないし「オピニオン」ないし「若干の秩序」への依拠は真の解決ではまったくなく、「芸術、科学、哲学は、それよりももっと多くのことを求めている」。むしろなすべきは、オピニオンという傘を引き裂くこと、すなわち「カオスのなかに潜ること」を通してそこから何かを持ち帰り、その何かによって、当のカオスからわたしたちを保護するのだと称するオピニオンとの闘いを開始することだと著者らはいう。「カオスとの闘いは、敵〔カオス〕との親和力なしには進みそうもない」とされる一方、「オピニオンに対する闘い〔…〕にこそより大きな重要性がある」と断じられるのは、そうした理由による。

さて、小倉拓也『カオスに抗する闘い』(人文書院、二〇一八年)は、この「若干の秩序」の必要性をめぐる『哲学とは何か』の文言を――上記の文脈から幾分か自由に――引き合いに出す点では、モンテベロの著書と軌を一にしている。日本の哲学研究者の著書の独創性をなすのは、いわばその議論の、あえて選び取られた一面的な性格だ。すでに見たところからも了解されるように、『哲学とは何か』におけるカオスは一般に、「内奥の脅威であるとともに、哲学的創造の源泉でもある」とされる(アルベルト・トスカーノの項目「カオス」、A・パー編『改訂版ドゥルーズ事典』)。モンテベロもこの標準的理解に則り、「若干の秩序」をめぐる一節を取り上げたのちには、『哲学とは何か』の同じ結論から、「風に吹かれた自由なカオスを少しばかり通」すことの必要性を語る別の一節を引用している。しかし小倉はといえば、「オピニオンに抗する闘い」の「カオスに抗する闘い」に対する優越という明言された序列に逆らって、前者――およびそれがこの晩年の著作において引き継いだものとされる「従来の表象=再現前化の批判」全般――の地位を低下させ、ドゥルーズの哲学にあっては「後者の方が根本的な位置を占めている」ことを説く(序論)。以後、九章からなる本論は、もっぱら哲学者の反カオス的身振りの体系的解明に捧げられるだろう。

ドゥルーズが純粋の無秩序を志向してはいないことなら、この哲学者の全読者が弁えている。そしてカオスと全面的解体に対する恐れのこうした強調は、今日の日本の知的議論に顕著な一種の保守的な秩序志向――そこでは、既存の支配的秩序(それを支える「オピニオン」および「コンセンサス」と闘うための武器として哲学を鍛え直すことが、『哲学とは何か』の主要な課題だったのだが)を刷新しようという渇望よりも、それなりに心安らぐものではありうるそうした秩序の崩壊を怖れる心性が、より切実なものとして共有されているように見える――というコンテクストとの親和性を感じさせなくもない。また、元来示唆的に表明されていた秩序志向の老齢を契機としての前景化という議論は、いささか演出過剰なものにも思われる。じっさい、「老ドゥルーズによる、麻薬や狂気に対するある種の「見限り」」によって一九九一年の著作を特徴づける著者の主張(第九章)は、例えば、すでに一九八〇年の『千のプラトー』(河出文庫)が「結局、麻薬を使わないでトリップ」し、「ただの水で酔っぱらう」べきだと結論付けていたこと(第六プラトー)を覚えている読者をあまり説得しないだろう。そして狂気についていうなら、『アンチ・オイディプス』(原著一九七二年)の時期にすでに、重要なのは「プロセスとしての精神分裂病」であって、「病院のスキゾ」とは「何かをこころみてそれに失敗し、身をもちくずした人間」にすぎないと明言されてはいなかったか(『記号と事件』河出文庫)、等々。

しかし、哲学者の周知の一面の方法的な偏重は、そのまま、本書の力強さの源ともなっている。なるほど、「器官なき身体の栄光とは、決して秩序の暴力的な破壊や転覆などに存するのではない」(第六章)ことなら、誰もが知っていよう。しかしそれを知っている誰にも真似のできない綿密さと知的一貫性をもって、小倉拓也はこの概念の発生史を、それがまだ「器官なき身体」の名で呼ばれることのなかった哲学的キャリアの最初期から跡付けている。『資本主義と分裂症』二部作への論及が控え目なものにとどまり、ドゥルーズ(およびガタリ)思想の社会哲学的次元が後景化されている憾みがあるにせよ(末尾における「来るべき人民」への言及の唐突さ)、既存の秩序と共存しつつも新たな何かを生成しうる場として構想されたこの概念をめぐる著者の議論は、このうえなく有益なものだ。「カオスに抗する闘い」の特権化という明示された主題にさほど共鳴しえなかろう少なからずのドゥルーズ読みにとっても、本書の読書は真に啓発的な経験となるに違いない。
この記事の中でご紹介した本
カオスに抗する闘い  ドゥルーズ・精神分析・現象学/人文書院
カオスに抗する闘い ドゥルーズ・精神分析・現象学
著 者:小倉 拓也
出版社:人文書院
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