宮台真司・苅部直・渡辺靖鼎談 民主主義は崩壊の過程にあるのか コモンセンスが「虚構」となった時代に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年12月21日 / 新聞掲載日:2018年12月21日(第3270号)

宮台真司・苅部直・渡辺靖鼎談
民主主義は崩壊の過程にあるのか
コモンセンスが「虚構」となった時代に

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年末恒例の「回顧特集号」をお送りします。学術・思想・政治・文学・歴史・芸術・ノンフィクションなど、ジャンルごとに一年を振り返ります。特集では、宮台真司・苅部直・渡辺靖の三氏に鼎談をお願いしました。  (編集部)

第1回
政治空間の分極化

苅部 直氏
苅部 
 去年の鼎談を読み返すと、トランプが大統領になっても、アメリカ憲法の権力分立の制度に阻まれて、まともな行動をとるようになるのではと僕が予測しているのですが、そうはなりませんでしたね(笑)。宮台さんは、この一年についてどのような感想をお持ちでしょうか。
宮台 
 僕は東日本大震災の少し前から「社会システム(制度)より人だ」と社会システム理論家らしからぬことを公言するようになりました。理由は単純。安保法制を強行した際に内閣法制局長官をイエスマンにすげかえたのが典型ですが、「法律が禁じていないことはやっていい」とオプトアウト(ブラックリスト)的に法を捉える政治家が増えたからです。まさに「人が変わった」。少なくともそうした観点から語らないと、実現可能な処方箋を出せなくなったのです。

法理学者のH・L・A・ハートが言う通り法には「疑わしき半影」がある。そこに意味を充当するのがコモンセンス(共通感覚)です。実際、重要な法的枠組については「やっていいと書いていないことはやらない」オプトイン(ホワイトリスト)で行動するのが自民党の歴代政治家でした。ところがコモンセンスを支える社会構造が空洞化すると、法のリテラルな解釈にへばりついて「法に違反していない」と言い張るヘタレ政治家が増えます。森友学園や加計学園の問題が典型ですね。

グローバル化での中流崩壊もあるけれど、専ら損得を人々の動機付けとして作動する〈システム〉が、損得を超えた動機付けを働かせる〈生活世界〉を上書きして空洞化させてきた歴史の方が大きい。だからウェーバーが言う意味で政治共同体(≒社会)全体の運命を背負う政治家が消えたのです。「見ず知らずの国民を仲間だとみる感覚」が政治家から失われた。その意味でも人が変わったのは社会システムが変わったからですが、人をシステムの産物と見るシステム理論からすると「人が社会システムを変える」という課題設定は語義矛盾なので、むしろ人に準拠して良いのです。

ウェーバーが言うあるべき政治家は、正しさのために法を破る存在です。仲間のために法を破るけれど、失敗したら結果責任を問われて血祭りになる──それを覚悟するような政治家は絶えて久しい。安倍晋三からトランプに至るまで「法は破っていない」と言い募るだけの「政治家とは名ばかりの市民」が増えました。

ウェーバーはヘーゲルに似ます。ヘーゲルは損得ゲームとしての市民社会ではカバーできない統合的中心に向かう営みを国家と呼ぶけど、ウェーバーはこれを市民倫理と政治倫理の対比に引き継ぐ。市民は損得ゲームに勤しんで良いが、政治家は違う。政治家全員が損得ゲームに淫すれば政治共同体が滅びてしまう。損得ゲームを超えて政治共同体に命を捧げる政治家が必要だ。法に従うことでかえって政治共同体が滅びるのであれば、法を踏み越えて政治共同体を救え──。この一年でウェーバーが言う政治家がいないことに皆が気づきました。予感してはいたけど衝撃でした。

政治家ならぬ市民の側でも長いスパンでの変化が明らかになった。『ハイブリッド・エスノグラフィー』(新曜社)を今年刊行した人類学者の木村忠正氏は、大規模な統計リサーチで、僕らが薄々感じていたことについてクリアな構造を実証します。複数の調査からネトウヨ層も炎上時に連投するコア層もネットユーザーの一パーセントだけど、安心しちゃ駄目。地滑り的変化が生じているからです。氏は「非マイノリティ・ポリティクスが拡大した」と言う。「マジョリティ・ポリティクス」と呼ばない点が味噌。氏の提起を象徴します。

木村氏は「政治が自称マイノリティに特権を与え過ぎ、マジョリティが享受すべき利益が喰われた」とする議論がネットで分厚く支持される事実を実証します。ネットユーザーの過半数です。「自称マイノリティ」には広い意味があります。生活保護受給者や在日コリアンやLGBTだけでなく、日本に様々な要求をする中国・韓国・北朝鮮のような国も含まれます。勤勉で正直な自分らマジョリティは弱者を騙るずるい人や国に利益を奪われている──。そんな被害妄想が拡大しています。

氏の議論はフランクフルター(批判理論)と接続がいい。中流が分解し、昭和みたいな経済成長も立身出世もない。そう人々が断念したのに加え、今のポジションより落ちるのではないかとの不安と抑鬱に苛まれる。フランクフルターが問題にした大戦間のワイマール期に似ます。エーリヒ・フロムの分析によれば、貧乏人ではなく、没落中間層が全体主義に向かう。「こんなはずじゃなかった感」に苦しむからです。だから被害妄想を誇大妄想で埋めようとする。氏はフランクフルターに触れてはいませんが、誰もが引き出せる論点です。

もう一つ深い指摘がある。ジョナサン・ハイトらの道徳心理学やロビン・ダンバーらの進化心理学に詳しい氏はこう述べる。仲間を大切にするがゆえにフリーライダーや仲間以外の人間を叩き出したがるのは、ゲノム的基盤を持つ自然感情。ところが先の「最終戦争」に対する反省に、トマ・ピケティが指摘した「G(生産の利益)>R(投資の利益)」という資本主義の例外的期間が重なり、「みんなで分けよう」というリベラルな政策が拡がる。政策だけでなく言論の主流にもなって自然感情が抑圧された。その抑圧された層がバックラッシュしているのが現在で、この層はゲノム的基盤を持つ道徳感情に従う潜在的多数派だから、リベラル叩きは永続するだろうと。

木村氏は、この鼎談で何度も取り上げたジョナサン・ハイトの道徳基盤理論も援用します。人間には五つ、最新の説では六つの「感情の押しボタン」がある。弱者への配慮・公平への配慮・聖性への帰依・権威への忠誠・伝統の尊重・自由の尊重。ところが人口学的に比較すると、リベラルな人々は、集団尊重価値である聖性・忠誠心・伝統への反応が平均より極端に小さい。氏はそれを指摘し、仲間の尊重という集団価値に反応しない普遍主義的リベラルは元々例外的で、特殊な条件がない限り多数派にはならないとします。総じて、現在の「右傾化」は一過性の事態ではなく、僕の言い方ならば「エントロピーが高い状態」つまり「よりありそうな状態」に戻っただけ。特殊な条件が与えた「エントロピーが低い状態」が、長く続くと思い込んだ点に知識人の間違いがあった。
渡辺 
 宮台さんの話に繋げて言うと、スティーブン・レビツキーとダニエル・ジブラットの『民主主義の死に方』(新潮社)が今年翻訳されました。民主主義が、民主的な制度の中で崩壊していく様を、過去の事例をもとに説いた本です。そのこと自体は、ドイツの例を見れば明らかなんですが、今の時代状況に絡めると、ふたつのポイントがあります。ひとつは、本の中では別の言葉が使われていましたが、宮台さんの言い方では、コモンセンスがなければ、いくら立派な制度でも、運用の仕方によっては悪用できてしまうということです。アメリカの憲法も、決して独裁を防ぐことができない。抜け道はたくさんあり、その気になれば、独裁制への道を開くことができる。二点目に、過去の政治指導者のパターンを参照しつつ、たとえばメディアを国民の敵と言ったり、自分が負けそうな選挙に対しては不正だと言ったり、いくつかの分類をしているんですね。トランプは、その分類にほぼ全部当てはまる(笑)。これはアメリカに限った話ではなく、ポーランドからトルコ、ブラジルまで、世界的に今、そういう型破りな手法を取ることが、強い指導者だと見られる風潮が蔓延している。その中で、権威主義的な体制が尊ばれたり、民衆の側も、保護主義的・自国第一主義的な政策を望む。言うならば、一九三〇年代の再来なんじゃないかという問題提起です。これは宮台さんの話の前半のポイントと繫がってきますよね。

後半の話については、マーク・リラ『リベラル再生宣言』(早川書房)が、参考になるんじゃないか。いろんな論点がありますが、少なくともアメリカにおいては、保守のみならず、リベラルもアイデンティティ・ポリティクスを過剰にしてしまっている。国民全体に関わる新しい物語、前向きの代替案を示せていないのではないか。そんな指摘をしています。今年一年、世界的には「Me Too運動」に注目が集まり、日本にも波及しました。それ自体は、否定されるべきではありません。けれども個々の人間が、各々のアイデンティティに根ざした権利だけを主張していった結果、全体を統合するビジョン、物語をかえって生み出せなくなってきている。リベラルの逆の功罪を解いた本として、マーク・リラの本に注目しました。
苅部 
 『リベラル再生宣言』は、日本語訳のタイトルがよくありませんね。そういう楽観的な本ではなく、原題は「The Once and Future Liberal」ですから、「かつてあった、そして将来あって欲しいリベラル」でしょう。つまり共和党対民主党、保守対リベラルという、宮台さんのおっしゃるコモンセンスを前提としたライバル関係が、かつてはあり、リベラルな政治主張もそれを前提としていた。これが七〇年代から壊れてしまったとリラは言うんですね。副題の「After Identity Politics」が示すように、七〇年代以降は双方とも、自分たちのアイデンティティを守ることにしか関心がなくなる。右の側でいえば、渡辺さんも『中央公論』の連載「リバタリアン・アメリカ」で論じられていることですが、リバタリアニズムからティー・パーティーへと至った動向、個人所有権の絶対擁護と、アメリカ自国第一主義の流れがある。左派のリベラルも、断片化したマイノリティの自己主張へと特化した結果、現実には政治空間から退出し、公共の議論の空間を破壊しつづけてきた。そうした新たな構造に乗りながら権力を握った、新しい種類のリーダーがトランプにほかならないというわけです。

この本は最後に、個別のアイデンティティの主張を超えた、同じ政治共同体の一員、「市民」としての連帯に基づいて、政党政治や一貫した外交政策を行うことの重要性を提起します。西部邁さんの最後の本『保守の遺言』(平凡社新書)の末尾の方に見える主張とも重なりますね。人間は「私人」と「公衆」という二つのアイデンティティを使いわけて生きている。そして「私人」の自己主張ばかりになった社会に対して、「公衆」のアイデンティティを再建しないといけないと説く。リラも西部も、公共空間で活動する「市民」としてのアイデンティティを確立せよと主張するわけですが、しかしそれは、これまで幾度も繰り返されてきた問題に戻ってしまうことになる。
宮台 
 市民というアイデンティティの再確立には「皆が同じ船に乗っている」という公共空間=市民的公共圏の再確立が必要です。でも再び巨大な悲劇の共有がないと難しい。だから困るのです。
苅部 
 キャス・サンスティーンは『#リパブリック』(勁草書房)で、次のような議論を展開していますよね。人々がネット空間に閉じこもり、自分の好きな政治ニュースしか見ないようになると、政治空間の分極化は激しく進む。そうした状況で、異なる意見どうしの討議に基づいたデモクシーを実践するには、メディアに中立性を保たせるため、政府によるある程度の介入を認めないといけないと。そのようなサンスティーンのシニカルな制度論と、「市民」のアイデンティティの再興論とのあいだにある領域で、どういう解が出せるのか。宮台さんがおっしゃったように、全体の運命に責任をとるカリスマ的な政治家の出現には期待できない。トランプのようなごく普通の人が、突然、人気の波に乗って権力を握る。そんな時代に何がありえるのか。「市民」のアイデンティティを広汎に確立するのでもなく、制度設計だけに頼るのでもない。サブリーダー的な人たちの組み合わせによって、物事を進めていく。そういう感じになるのかもしれません。
宮台 
 賛成です。
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