宮台真司・苅部直・渡辺靖鼎談 民主主義は崩壊の過程にあるのか コモンセンスが「虚構」となった時代に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年12月21日 / 新聞掲載日:2018年12月21日(第3270号)

宮台真司・苅部直・渡辺靖鼎談
民主主義は崩壊の過程にあるのか
コモンセンスが「虚構」となった時代に

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第2回
古典に回帰する

宮台 真司氏
宮台 
 サンスティーンが「制度を設計する二階の卓越者」の概念で人と制度に跨がって期待するのはそういうこと。人と制度の関わりは古典的枠組に戻って考えるのが良い。なぜヨーロッパで市民アイデンティティと公共空間の発想が出てきたのか。社会学的には内集団・外集団・包括集団の問題です。内集団は所属集団で、外集団は非所属集団。人は内集団に属しますが、日常のコミュニケーションで外集団の人々と交わらざるを得ない場合、どの集団にも属さないプラットフォーム、別言すれば全ての集団をも含んだ包括集団のプラットフォームが必要になります。これが公共空間つまり市民的公共圏。ここから幾つかのことが言える。

社会心理学者の山岸俊男氏によれば、日本では江戸時代の善政もあって、人々は内集団の中でしかコミュニケーションしてこず、どの集団にも属さないプラットフォーム=公共空間の必要がなかった。日本の公はせいぜい「滅私奉公」。私心を超えると言えば、内集団のために自分を犠牲にすることだった。原発事故が日本の半分を沈めようが、東京電力の原発政策に命を捧げる東電社員みたいな。さて、サンスティーンの指摘した、ネット空間で「見たいものしか見ない」「コミュニケーションしたい人としかコミュニケーションしない」という具合に内集団に閉じる動きは、その意味で「日本化」です。日常を絶えずルーツの違う人と交わるはずの欧州的伝統が弱まりつつあるのです。

アメリカはこのシチズンシップにタウンシップの伝統が被さる。武装市民の伝統です。内集団に対しては仲間を守る武闘が「義務」になり、外集団に対しては仲間を守る武闘が「権利」になる。それが、タウン水準、カウンティ水準、ステイト水準、ユナイテッドステイツ水準と、全ての層でマトリューシカ的に反復される。つまり、彼等の日常生活はライフスタイルの合致する仲間ウチで成り立ち、その外側は謂わば決闘ルールだということ。建国事情や国土の広さもあって、棲み分けて混ざらないのです。相対的に、欧州的伝統は「混ざり合い社会」で、米国的伝統は「棲み分け社会」です。

「国民が銃を放棄すれば平和になろうが、それはアメリカの秩序ではない」と言い放つ全米ライフル協会。「そうした伝統を知らない移民が増えればアメリカはアメリカでなくなる」と主張するオルトライトのカリスマ的指導者リチャード・スペンサー。彼は「レイシズム」を自称しますが、中身は人種主義というより文化主義。黒人であれ黄色人種であれ白人の継承してきたアメリカン・スタイルを受け容れるならばOKだと。頭が悪い日本のネトウヨと違い、アメリカ建国事情を知る者からするとスペンサーの主張は変じゃない。むろん、グローバリズムの過剰流動性を前提にすれば、棲み分け推奨は「非マイノリティ・ポリティクス」のごとき疑心暗鬼を生む。どこかの集団がうまい汁を吸ってるんじゃないかと。実際そうなっています。

もう一つ。『リベラル再生宣言』に関係しますが、フランス革命の二七年前、ジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』で「ピティエ」の言葉を使った。この鼎談でも触れてきました。ある政治的決定によって政治共同体の各成員がどんな目に遭うかを「想像でき」かつ「気にかかる」ことです。それが想像できず、想像できても気にかからないなら、民主政は動員合戦になって形骸化する──。ルソーの言う通りになりました。その一四年後、アダム・スミスが『諸国民の富』で、人々が他人の苦しみを自分の苦しみとするような同感能力(シンパシー)を持つ場合に限り、市場で「神の見えざる手」が働くと言った。ルソーは政治社会、アダム・スミスは経済社会と、議論の土俵が違うけど、同じ時期に共通して「感情の劣化」を危惧したのですね。
苅部 
 アダム・スミスに関してもう一つ重要なのは「公平な観察者」の視点ですね。自分の感情の流れを客観的に見る、もうひとつの立場を内面化することで、シンパシーが支えられる。
宮台 
 「私としての私/共同体的存在としての私」という二重性を想定する一八世紀の二つの古典が、「私としての私」しかいなくなった近代社会の終焉を予告しています。昨今の数多の本は二つの古典に回帰していると感じます。巧妙なシステムを作ればうまくいくのに、誰かが設計を間違った…という人は今や少数です。冒頭に話したように、僕も「人の問題が大きい、問題は感情の劣化だ」と言うようになった。むろん人は社会の産物ですが、社会を変えるにせよ、人をどうするかという外部基準を設定しないと有効ではなくなりました。
渡辺 
 これまでの九回の鼎談を読み直してみると、かなり大きな包括的テーマをカバーしてきた印象があります。今のルソーにしてもそうですが、トクヴィルの話であったり、古典に立ち返りつつ議論しながら、ひとつの見方として、民主主義がどうにもならない状況にまできてしまったという話をしてきました。では、どういう処方箋があるのか。サンスティーンの本であれば、たとえばスマートフォンに、あえて自分とは異なる意見が送られてくるようなシステム設計が提起されている。おもしろい考え方だと思います。しかし現実を考えれば、異なる意見を受け入れる人は、然程多くない。宮台さん、苅部さんの話を聞いていると、そもそも政治家の役割が根本的に変ってきている、あるいはガバナンスのかたちとして、代議制や政党政治自体が変質を迫られているのかもしれない。

そう思う一方で、昔は、本当に民主主義的だったのかどうか。今でも過去を参照する際に、アメリカならば一九五〇年代が、いい時代として思い起こされますね。日本で言えば、田中角栄の時代が振り返られることが多いですが、それほどいい時代だったのか、検討する余地はあると思います。議論すべきことはふたつあって、新しい情報化、グローバル化の時代に求められる政治家像、あるいは政党イメージや統治ガバナンスのモデルについて、検討が必要であるということ。その反面で、果たして今がそれほど悪い時代なのかということです。
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